福井に残る坂本龍馬ゆかりの地特集!!福井人にもあまり知られていないとっておきをお教えします。
幕末といえば何と言っても坂本龍馬ですね!坂本龍馬でイメージする場所は?土佐?江戸?京都?長崎?
あまりイメージは無いと思いますが、実は龍馬にとって福井も特別な場所なのです!龍馬関係のテレビ番組等でも「意外な幕末史」として福井が取り上げられることが増えています。
龍馬ファンならずとも、これらを知ったら福井に旅行に行きたくなる!!そんな興味深くも意外な「坂本龍馬ネタ集」を一挙ご紹介します。福井人もあまり知らないネタも多いので、福井人相手にも自慢出来るかも⁉(笑)
(※龍馬のエピソードや手紙の真贋等については様々な説があります。)
- ライター:Tomo & Yasu
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坂本龍馬ゆかりの地マップ
今回取り上げる龍馬ゆかりの場所(+越前和紙の里)をマップで表示します。
福井駅周辺にはいくつかのスポットが集中しているので、街歩きやレンタサイクルでの観光にも最適ですよ!
- 莨屋旅館跡(たばこやりょかんあと)
- 福井城址
- 由利公正宅跡
- 由利公正広場
- 横井小楠寄留地跡
- 富田勢源道場跡
- 今庄宿
- 関義臣 生誕地
- 越前和紙の里
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暗殺2週間前に宿泊!「莨屋旅館(たばこやりょかん)」跡
龍馬が亡くなる約2週間前、最後の遠征先として福井を訪れており、その際に宿泊したのが「莨屋旅館」です。
有名な小説「竜馬が〇〇」の最終章「近江路」の舞台として登場します。
2017年に放映されたNHKスペシャル「ドラマ 龍馬 最後の30日」にも登場し、暖簾に「莨屋」という名前がしっかりと出ていましたね。
福井県下商工便覧 (明治20年出版)
龍馬はここで旧知の三岡八郎(後の由利公正)と再会し、朝まで語り合ったとされています。
(後述しますが、この後、亡くなるまでの間に、龍馬は三岡を新政府に参加させるよう強く求める手紙を書いています。)
莨屋旅館は残念ながら1902年(明治35年)に発生した橋北大火にて消失してしまいます。
う~ん、龍馬が宿泊したそのままの旅館を見たかったですね~。
ここを訪れ、「ここは石碑だけか~」と次の目的地へ向かう龍馬ファンが多いと思いますが、
今回は地元ライターならではの情報を提供します!
隣を見てみると~…
ん?「料理 仕出し ***??」と黄色い看板が気になります。
(分かりますよ、変体仮名が読めないですよね。「よしだ」と書かれています。)
せめてここで食事が食べられたらなぁ、旅行中に仕出し料理を食べるのは無理だな~、残念。
…と思いながら帰るのはもったいない!
こちらは「料理 仕出し 与志多(よしだ)」さん。
石碑は営業の支障になるために駐車場の端に置かれていますが、れっきとした「莨屋旅館の跡地に建つお店」なのです!
外から見ただけでは分かりませんが、仕出しだけではなく、実は2階の座敷で料理を食べることが出来るのです!(要予約)
坂本家ゆかりの方、北辰一刀流 千葉道場ゆかりの方、全国の各龍馬会等、龍馬ゆかりの方々が多く訪れている、知る人ぞ知る龍馬ファンの聖地なのです!
龍馬が宿泊した頃に作られていたであろうレシピを再現した「龍馬御膳」もありますよ。
龍馬が宿泊した空間で、龍馬ゆかりの食事を堪能しましょう!
「え~!知らなかったよ~!前に訪れた時に知っていれば…!」と悔しがっているアナタ!
2024年開通の北陸新幹線でもう一度福井にお越し頂ければ良いのです!
大丈夫、この記事を最後まで読めば、また福井に行きたくなる場所が出てきますから(笑)。
- 莨屋旅館跡(たばこやりょかんあと)
- 慶応3年(1867)11月、坂本龍馬が暗殺される前に、由利公正と新政府の構想について会談した旅館。夜更けまで日本の将来を語り合ったと言わ…
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- 料理 仕出し 与志多
- 坂本龍馬が由利公正と語り合った地と伝わる「莨屋旅館」の跡地に建つ仕出し料理店。仕出しだけではなく、実は2階の座敷で料理を食べるこ…
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Column
1階は魚屋、2階は料亭? 福井ならではの仕出し料理屋
「1階が魚屋、2階が料亭」という仕出し料理屋は福井ならではの文化。
福井市内にはこのようなお店がいくつもあります。予約が必要ではありますが、ぜひ訪れて頂きたい「福井ならではの文化」です。
中でも与志多さんは「龍馬の聖地」と「福井ならではの仕出し料理屋」が掛け合わさった、とても興味深いお店なのです。
【料理・仕出し 与志多】
住所:福井市照手1-14-4
電話:0776-24-2342
備考:2階での食事は2名以上/要予約(1週間前までに)
龍馬が訪れた由利公正邸跡
龍馬が亡くなる直前に会いに行った三岡八郎(後の由利公正/本項では由利公正で統一します)。
龍馬は2度、公正を訪ねており、2度目は前項のとおり莨屋旅館に会いに行っています。
1度目は熊本から招聘されていた横井小楠(公正の師匠)と共に公正邸を訪ね、3人で飲み語り合い、機嫌を良くした龍馬は「君がため 捨つる命は惜しまねど 心にかかる 国の行く末」という歌を詠んでいます。
坂本家九代目当主 坂本登氏(龍馬の兄 権平のご子孫)による揮毫であり、石は高知の龍馬の生家近くにあったものを用いたそうです。
龍馬は公正をたいへん高く評価しており、2014年放送のNHK番組撮影中に偶然発見された、後藤象二郎宛の手紙「越行の記」(番組のプレスリリース記事)や、2018年に発見された、福井藩家老「中根雪江」宛の手紙「新国家」といった「亡くなる10日以内の最後の手紙」では、公正を「新国家の財政担当」に強く推挙する内容が書かれています。
なお、龍馬と親しくしていた熊本藩 横井小楠が住んでいた寄留地跡はこちらの対岸にあり、龍馬はこの横井小楠宅にも訪れたと言われています。
ぜひ由利公正邸跡とともに訪れてみてください。
- 由利公正宅跡
- 福井藩財政を再建し、新政府では「五箇条の御誓文」の原案「議事之体大意」を作成した由利公正(三岡八郎)が住んでいた地。ここで横井小楠…
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- 坂本龍馬の歌碑
- 福井市の中心を流れる足羽川の遊歩道に、由利公正宅で会談中、坂本龍馬が詠んだ歌が彫られています。石は龍馬の故郷(高知県)から取り寄せ…
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- 由利公正広場
- 由利公正居宅跡に近い足羽川の幸橋南詰上流側にある広場。公正の恩師である横井小楠の寄留宅跡(幸橋北詰下流側)の方向を向く由利公正像や…
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- 横井小楠寄留地跡
- 松平春嶽が熊本藩から招聘し福井藩政治顧問となった横井小楠が、福井に訪れた際の寄留宅跡地。坂本龍馬が勝海舟の命で来福した際にこの居…
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- 内堀公園
- 福井城址のお堀の側にある小さな公園。本丸復元図や福井城下の歴史がわかる説明書き、安政5年(1858年)冬に横井小楠と由利公正が一緒に九…
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Column
え⁉紙幣にも「龍馬と福井」が関係?
前述のとおり、龍馬は「新国家への公正(三岡八郎)の参加」を強く求め、「財政担当」に推挙していました。
公正は龍馬の生前の希望どおり新政府に参加し、財政を担当、1868年(慶応4年)には「日本初の全国通用紙幣」である「太政官札」を発行します。
この太政官札には「越前和紙」が採用され、1885年(明治18年)に発行された通称「大黒札」では、越前和紙の技法である「白黒透かし」が導入されました(この「透かし」は2024年の新紙幣にも引き続き採用されています)。1923年(大正12年)には越前市の岡太神社・大瀧神社に祀られている「和紙の神様 川上御前」が東京王子の印刷局に分祀される等、福井とお札の関係は非常に深く「お札のふるさと」とも言えます。また、そのきっかけを作ったのは龍馬にあるとも言えるのです。
(写真:由利公正広場の説明版)
龍馬が「仲が良いこと」を姉に自慢した幕末の超キーマン、福井藩主 松平春嶽
福井駅からすぐの場所にある福井城址。
こちらにも坂本龍馬は訪れています。
訪れた目的は、幕末に活躍した「幕末の四賢侯」の一人、松平春嶽公に会うためです。
龍馬は勝海舟の弟子となっていることは有名ですが、江戸にて幕府政事総裁職であった春嶽公に会い、春嶽公からの紹介状を得て、勝海舟に接見することとなります。
その後、春嶽公に会うため、龍馬は二度福井城を訪れています。
一度目は1863年(文久3年)、勝海舟の使いとして神戸海軍操練所を作る資金を借りるため。
二度目は1867年(慶応3年)、山内容堂公の書状を渡すため。
ただこの時は春嶽公には会えなかったようで、三岡八郎(由利公正)と会談したあとに京都に帰りました(直後に暗殺)。
龍馬が姉 乙女に宛てた有名な手紙「日本をいま一度せんたくいたし申候」の中では、春嶽公に頼りにされていることを乙女に自慢しています。
後述の高知県立坂本龍馬記念館「龍馬の知恵袋 福井藩」展の各種紹介を読んで頂ければ、いかに春嶽公が龍馬や新国家にとって重要な存在であったかを伺い知ることができます。
龍馬とも関係が深く、春嶽公が招聘し福井でも活躍した熊本藩士「横井小楠」の地元である熊本市の高橋公園には、松平春嶽、横井小楠、坂本龍馬、勝海舟、細川護久の像が並び建っています。
- 福井城址
- 福井城は、徳川家康の次男・初代福井藩主・結城秀康が慶長11年(1606)に築城し、約270年間17代にわたり越前松平家の繁栄の舞台となった名…
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龍馬と何のゆかりが…?富田勢源道場跡 (一乗谷朝倉氏遺跡)
歴史に詳しい方でも「え?龍馬と一乗谷?何か関係あるの?」と思う方がほとんどでしょう。
きっと世の中広しと言えども、龍馬と一乗谷をつなげた紹介は無いと思います!
一体何のゆかりがあるのでしょうか?
坂本龍馬は土佐を出て、江戸の北辰一刀流「玄武館(千葉道場)」にて剣術の修行をしたことは有名ですね。
ここで龍馬はめきめきと実力をつけ成長し、当時の道場主 千葉定吉の娘「千葉さな子(佐那)」と恋仲になっていたこともよく知られた話です。
当時北辰一刀流は隆盛を誇っており、「玄武館」は「神道無念流 練兵館」「鏡新明智流 士学館」と並び、「幕末江戸三大道場」と言われていました。
(「幕末の三舟」の一人である山岡鉄舟や、「新選組」の藤堂平助、山南敬助、伊東甲子太郎等も北辰一刀流を学んでいます。)
この北辰一刀流の系譜を辿ってみると、
<新>
▶北辰一刀流
↓
中西派一刀流
↓
小野派一刀流
↓
一刀流
↓
▶中条流(富田流)
↓
念流
<古>
となり、越前朝倉氏に仕えた、中条流(富田流)の達人「富田勢源」にたどり着くのです!
富田勢源肖像画
( 金沢工業大学ライブラリーセンター所蔵 )
富田勢源は盲目ながら凄まじい小太刀の達人であり、美濃の大名 斎藤義龍(斎藤道三の息子)の依頼にて行った神道流達人 梅津某との御前試合にて、勢源は近くにあった一尺二、三寸(約40cm)の割木を手に取り、あっさりと打ち負かしたという逸話が残っています。
この富田勢源の道場跡とされる場所が、一乗谷朝倉氏遺跡に残っています。
「ここで富田勢源や弟子たちが技を磨き、この場所から坂本龍馬にも引き継がれる、中条流から一刀流剣術の長い歴史があるんだな…」と思うと感慨深いですね~。
同地のすぐ近くには、富田勢源の菩提寺とされる「盛源寺」があります。一乗谷屈指の大量の石仏が残る場所でもあり、こちらもおすすめです。
(寺の名前が富田勢源と似ていますが、盛源寺の創建は勢源が生まれる前のようです。)
ちなみに、
宮本武蔵のライバルとして有名な「佐々木小次郎」は、「福井市浄教寺町(盛源寺近く)出身であり、富田勢源の門人」と「二天記(武蔵の伝記)」に書かれています。
多少年代的な矛盾もあり「勢源の弟子である鐘捲自斎(かねまきじさい)の弟子」等諸説あるようですが、少なくともこの時代の中条流(富田流) 富田勢源が剣豪として名を馳せていたということが分かる逸話だと思います。
- 富田勢源道場跡
- 戦国時代の一乗谷朝倉氏に仕えた剣豪「富田勢源」の道場跡地です。富田勢源は中条流(富田流)の達人であり、ほぼ盲目でありながらも、美濃…
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- 盛源寺
- 盛源寺は福井市春山にある現在の清源寺(せいげんじ)に相互に関係すると考えられています。清源寺は明応年中(1492~1501)、開山真盛上人…
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- 一乗谷朝倉氏遺跡
- 福井市の南東約10キロ、一乗谷にある一乗谷朝倉氏遺跡は、戦国時代に朝倉氏五代が約100年間にわたって越前の国を支配した城下町跡。武家…
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富田勢源は現代の合気道にもつながる⁉
龍馬の話から逸れますが、富田勢源の流れをくみ、会津にも伝えられた「小野派一刀流」を学んだ人物に、大東流合気柔術 武田惣角という武術の達人がいます。惣角の高弟の一人、植芝盛平が後に「合気道」を創始します。このことから、富田勢源は世界中で学ばれている合気道の「先祖の一人」とも言えるかもしれませんね。
富田勢源道場跡は、剣術ファンのみならず、全国の合気道ファン・古武術ファンにも是非訪れて頂きたい場所ですね。
龍馬の逸話を多数残した 海援隊士 関義臣(せきよしおみ)
海援隊というとイメージは土佐なのですが、実は福井出身の隊士もいました。
「1名くらいいるでしょ」と思われるかもしれませんが、意外にも、少なくとも6名は所属していたらしく、これは隊の中でもかなりの比率だと思います。
なかなか意外ですね~。
関義臣 (「鳥取県の誕生 : 再置の前後」より引用)
福井出身の隊士の中に、関義臣(山本龍次郎)がいます。
福井藩筆頭家老本多家の家臣の家に生まれ、橋本左内に見出され、江戸の昌平坂学問所でも学びました。
その後、長崎に滞在していた龍馬を訪れ、意気投合し亀山社中(海援隊の前身)に参加します。
義臣は明治維新の後、鳥取県第2代知事、山形県第9代知事、徳島県第12代知事等を歴任し、かなり長く後の世まで生き残った海援隊士でもありました。
義臣の生誕地は、武生駅から徒歩10分くらいの越前市神明町 三田村工務店の敷地内にあります。
武生駅周辺には越前そば、ボルガライス、寺社仏閣等が沢山あるので、ぶらり街歩きもおすすめですよ!
(車でお越しの方は、武生公会堂記念館の無料駐車場をお使いいただくことをお勧めします。)
- 関義臣 生誕地
- 関義臣(山本竜次郎)は、府中本多家の家臣、山本五左衛門の次男です。幕末に藩校明道館にて橋本左内に認められ、横井小楠に学びました。ま…
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龍馬の風貌や性格等を伝え残した関義臣
義臣は今我々が知ることの出来る龍馬の風貌や性格等を色々と伝え残しています。
・身長は5尺8寸(176cm)
・色黒で毛深く、裸を見せず誰とも一緒に入浴しなかった。
・女性に暴行を働いた水夫を切って捨てた。
・土佐を出る際に親から与えられた戒めの紙をお守りにしていた。
義臣が残したこれらの逸話は「高知県立坂本龍馬記念館 龍馬FAQ」にも複数記載されており、貴重な情報であることが分かりますね。特に「人を切った」というのは龍馬にしては珍しい逸話だと思います。
龍馬も宿泊した今庄宿
今庄宿は北国街道の北陸の玄関口になります。
歴史上、福井(嶺北地方)に南側から来た人物は、概ねこの宿場町を通っていることになります。
坂本龍馬も福井への往復で少なくとも4度は通ったと思われます。
残念ながら坂本龍馬が宿泊した場所等の記録は残っていませんが、
「この宿場町のどこかで龍馬が食事、宿泊したのかな」と思うと感慨深いですね。
なお今庄宿から福井城までは約35km。
その気になれば歩けない距離では無さそうです。
これは「プチ龍馬旅行ごっこin福井」として歩いてみるしか無いですね。
かつての北国街道と並行して北陸本線が走っているので、「ギブアップ!」という場合は、途中から電車に乗って福井駅まで行けばOKです!(笑)
- 今庄宿
- 町並は今もなお、昔の面影を残し、素朴な雰囲気を漂わせています。角を曲がって路地裏に足を踏み入れると、そこはもう時代劇の宿場町、タ…
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有名な「龍馬の写真」は福井で撮影された可能性が⁉
令和3年の福井市郷土歴史博物館「龍馬と福井」展の資料には、有名な龍馬の写真に「福井藩士の子孫に伝来した坂本龍馬の写真(個人蔵)」という気になる記載がありますね…。
そこで更に調べてみると、高知県立坂本龍馬記念館「龍馬FAQ」情報によれば、現在知られている「龍馬の写真」は「6種類」あるそうです。
この写真は「F」ですね。
A:立ち姿の写真(桂浜の銅像のモデル)
B:椅子に座ってブーツを履いている写真
C:伊藤助太夫と使用人と撮った3人の写真
D:上半身だけの写真
E:海援隊士と撮った写真
▶F:縁台に座った写真
「龍馬FAQ」によれば、写真「F」は、
・菊の花が写っており、秋ごろの撮影と思われる。
・生え際が後退しており、長崎で撮られたと思われる写真より後と思われる。
・慶応3年の秋である可能性が高い。
ということから、福井に行った際に撮られた可能性があるそうです!
もちろん、「龍馬FAQ」にも書かれているとおり、この説は推測の範囲であり、あくまで「可能性」ではありますが、
「福井説」があること自体が、龍馬と福井との縁を感じさせますね!
しかも福井藩士の子孫にその可能性がある写真が伝わっているとは…。
「撮影された場所は、莨屋旅館(前述)なのかも…(※ライターの妄想です)」
「由利公正(三岡八郎)が、懐に入れていた龍馬に貰った写真を、足羽川を船で渡っている時に落とし失くしてしまった(後に、ちょうど龍馬暗殺があったタイミングだったと知る)という、その写真はもしかしてこの写真と同じものなのかも…(※ライターの妄想です)」
うーん、エピソードを1つ新たに知るだけでも、龍馬をめぐる妄想は尽きませんね!
高知も龍馬と福井との関係に注目!
「そりゃあ龍馬は交友関係も広かっただろうし、福井もそのうちの一つでしかないでしょ」と思ったアナタ!
気持ちは分かりますよ。僕も福井と龍馬との関係が深いとは全然知りませんでしたから。
しかし龍馬の地元である高知でも「龍馬と福井」の関係が近年注目されています。
■高知県立坂本龍馬記念館「龍馬の知恵袋 福井藩」展
2020年には「龍馬の知恵袋」として大々的に福井藩が紹介されました!
同展示会の企画展ページは現在も閲覧可能であり、たいへん読みごたえがあります。
[龍馬の知恵袋 福井藩展 企画展ページ]
[龍馬の知恵袋 福井藩展チラシ(PDF)]
同記念館のYoutubeチャンネルにて紹介された、福井藩展の解説動画です。
なんという動画数!どの解説を見ても思いっきり「龍馬と福井」!
いずれも短時間でサクっと見れますので超おすすめです。
「龍馬の知恵袋 福井藩展」展示資料解説2 松平春嶽書(漢詩)
「龍馬の知恵袋 福井藩展」展示資料解説4 松平春嶽筆「逸事史補」「閑窓秉筆」
「龍馬の知恵袋 福井藩展」展示資料解説5 〈越行の記〉坂本龍馬書簡後藤象二郎宛
企画展を紹介した地元「高知さんさんテレビ」のニュース動画はこちら。
「坂本龍馬の知恵袋「福井藩」展 土佐藩との重要な関係・新政府の財政担当した三岡八郎とは?」
■高知銀行カレンダー2018
高知銀行は毎年「坂本龍馬カレンダー」を発行していますが、幕末明治150年の記念すべき2018年版は、前年に発見された手紙「新国家」がテーマとなっています。
手紙の中で「新国家の財政担当に」強く推挙されていた由利公正、手紙の宛先であった福井藩家老の中根雪江について書かれており、正に「龍馬と福井」のカレンダーですね!
高知銀行 2018年カレンダー
僕も龍馬を介して改めて地元の歴史に深く触れることが出来ました。
ぜひ皆さんにも、福井に来て龍馬を感じて頂ければ幸いです。
それではごきげんよう~。