福井に残る源平ゆかりの地をご紹介!(源義経、木曾義仲、平家物語の登場人物ゆかりの地)
福井県民でも「え?福井って源平と関係あるの?」と思う人が多いと思いますが、意外にも「源平ゆかりの場所」も多数残っています。もちろん、源平ゆかりの地は全国に多数ありますが、ここ福井には木曾義仲や源義経など、2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場した重要人物ゆかりの場所が多数あるんですよ。
それぞれの伝承はとても興味深いのですが、本記事の中で一つ一つご紹介するのは大変困難なので、各項にて並べ表示している「スポット情報」のリンク先も是非ご一読ください。
※それぞれの伝承について諸説ありますが、本記事は史実としての真偽を論じるものではありません。
※紹介する範囲は福井県の北半分「嶺北地方」になります。
- ライター:Tomo & Yasu
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源平ゆかりの地マップ
本サイトに登録されている観光スポットから、福井県の北半分である「嶺北エリア(≒越前)」にある源平ゆかりの地を表示します。マップを開いたら絶対ビックリしますよ!意外と多いですよ~!!(こちらは観光スポットに登録されているものだけなので、実際はもっともっと多いですよ!)
- 燧ヶ城跡(火打城跡)
- 白山平泉寺 / 平泉寺白山神社
- 大塩八幡宮
- 実盛堂(実盛社)
- 実盛池
- 斎藤実十郎家のひいらぎ
- 辻観音堂
- 木ノ芽峠
- 祇王祇女の屋敷跡
- 千古の家(坪川家住宅)
- 笛資料館【閉館】
- 仏御前の滝
- 越前二の宮 劔神社(剣神社)
- 幸若音曲発祥の地記念碑
- 蝉丸の墓
- 天満神社
- 平家平
- 真名峡・麻那姫湖
- 梨子ヶ平千枚田水仙園(越前水仙群生地)
- 鵜甘神社(池田町)
- 能面美術館
- 白山神社(池田町)
- 越前水仙発祥伝説の碑
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平氏と越前の関係とは?
平氏の家紋「揚羽蝶」
まずは平氏と現在の福井との関係を追ってみましょう。
平正盛(平清盛の祖父)は無名の隠岐国守でしたが、最高権力者の白河院と関係を築き、国力としては上位の若狭国守(若狭≒福井県嶺南地方-敦賀)に抜擢されます。後継者である平忠盛(清盛の父)は1120年に越前守(越前≒福井県嶺北地方+敦賀)となりました。
保元・平治の乱の後、平氏の台頭が進み、越前を平重盛(清盛の息子)家、若狭を平経盛(清盛の異母弟)家と、越前・若狭ともに平家が独占的に保持しました。
しかしその後、後白河法皇と平氏の対立が表面化。平重盛(清盛の息子)の知行国(知行:国を支配し収益を得る制度)である越前を法皇が取り上げたこと等から、平清盛はクーデターを起こし、越前国は平家一門が取り戻します。しかし世間では平氏への不満がたまり、1180年には以仁王が平氏追討を決意したことにより反乱は全国へと広がり、平家は滅亡へと進んで行きました。
(参考文献:福井市橘曙覧記念文学館「平家物語へのいざない」、福井県史「越前・若狭と平氏」)
…かなり福井との関係は深いんですね。
権力者であった平氏が越前・若狭を重視していたということは、それだけ当時の福井が重要な場所だったということなのでしょう。
※平家:一般的に平氏の中でも平清盛の一族が「平家」と呼ばれています。
木曾義仲・斎藤実盛ゆかりの地~「平家物語」の「火打合戦」や「実盛最期」等に登場
源平合戦の中でも人気があり重要人物でもある木曾義仲(源義仲)。源頼朝・義経の従兄弟にあたります。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では巴御前と共に、とても重要かつ印象的な存在でしたね。「源平盛衰記」や「平家物語」でも木曾義仲が特にフューチャーされている「火打合戦」の舞台である福井には、ゆかりの地がいくつも存在します。
また「平家物語」の「実盛最期」に登場する、木曾義仲軍に討たれた斎藤実盛は越前(福井)出身とされ、居館跡と伝わる場所等がありますよ。
- 燧ヶ城跡(火打城跡)
- 今庄宿の背後にある通称愛宕山に平安時代末期頃に築かれた標高267mの山城です。今庄駅から近く、ハイキングコースにもなっています。源平…
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- 白山平泉寺 / 平泉寺白山神社
- 境内は一面に緑の美しい苔で覆われ「苔宮」「苔寺」とも呼ばれますが、現在は明治の神仏分離令により寺号を廃止し、白山神社となっていま…
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- 大塩八幡宮
- 仁和3年(887)、越前に流された中納言紀友仲が無実の罪を晴らすために、この地で祈願を続けました。まもなく許されて都に帰ることができ、…
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- 実盛堂(実盛社)
- 長畝集落にある斎藤実盛を祀った堂。堂内には僧衣の実盛と甲冑姿の実盛の木像(江戸時代末期)、十一面観音が安置されています。斎藤実盛の…
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- 実盛池
- 源平合戦で名高い斎藤実盛は越前出身と言われており、伝説によれば、実盛が誕生した際にこの池の水を産湯に使ったといわれています。池の…
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- 斎藤実十郎家のひいらぎ
- 源平合戦で源氏方の木曾義仲軍と戦った平家方の武将 斎藤別当実盛が、戦いの途中に久しぶりに故郷に帰った際、実家の庭先に植えたものと…
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源義経の軍記「義経記」にも福井は多数登場!
源義経が軍記物である「義経記(ぎけいき)」にも福井が登場します。
奥州平泉までの逃避行ルート(参考>福井県史「『義経記』の道」)にもなっており、平泉寺は義経記の「平泉寺御見物の事」という項において「あの有名な平泉寺を拝みたい」と弁慶と共に立ち寄った場面が詳細に描かれています。
福井市の美山(みやま)地区には「源義経が現地の民家から橇(かんじき)を貰ったお礼に「七郎丸の名」「兜の前立の鏡」「剣」を与えた」という伝承があり、この地区には「七郎丸の名」が残り、また「兜の前立の鏡」は八幡神社(福井市大宮町(旧 美山町大宮))に残っているそうです。(参考>美山町史「義経と美山」)
こちらの福井市大宮地区(旧美山地区)の草分けと伝わる「七郎丸」「道徳」「正源」の三軒のうち、お話をお聞かせ頂いた土田さん(土田道徳家)と宮田さん(宮田七郎丸家)。土田道徳家では「先祖はお坊さんであり、義経を平泉寺へと案内した」と伝わっているそうです。(美山町史には「道徳とは、1183年 多武峰十字房にいて義経を案内した道徳房と同名」と記載あり。注記>多武峰(とうのみね)は奈良県桜井市南部にある山、および寺院。吾妻鏡には義経が多武峰に隠れ住んでいるという記載あり。)
- 木ノ芽峠
- 福井県を嶺北と嶺南に分ける地です。1,200年の間、越前の玄関口としての番所があり、江戸時代からは前川家が茶屋番や山回役の任に当たり…
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- 八幡神社(福井市大宮町/旧美山町大宮)
- 大宮八幡神社は明治42年に八幡神社に厳島神社(弁天)と熊野神社(西谷)と白山神社(観音堂)を合祀し、羽生・味見・芦見地区の総社として現在…
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- 白山平泉寺 / 平泉寺白山神社
- 境内は一面に緑の美しい苔で覆われ「苔宮」「苔寺」とも呼ばれますが、現在は明治の神仏分離令により寺号を廃止し、白山神社となっていま…
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- 辻観音堂
- 源義経の軍記物「義経記」には義経と弁慶は東北に逃れる際に平泉寺に立ち寄ったことが描かれています。辻観音堂は義経が滞在したと場所と…
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Column
奥州平泉と平泉寺との関係⁉
奥州「平泉(ひらいずみ)」と「平泉寺(へいせんじ)」とは名前が似ていますね。実は白山周辺や平泉寺には奥州藤原氏にまつわる記録や伝説が残っています。奥州平泉の名の由来については諸説ありますが、平泉寺から名付けられたという説もあるそうです。また東北地方には平安時代から白山社が祀られており、中尊寺にもあるそうです。更に平泉町役場の辺りは「志羅山(しらやま)」地区という名前であり、白山の古称「しらやま」と同じ読み…。
身元を隠しながらの逃避行中であった義経が、リスクを冒してでも平泉寺に立ち寄りたかったことと関係していたら面白いですね。
詳しくは勝山市教育委員会による「平泉寺かわら版」をどうぞ。
「平家物語」登場人物ゆかりの地
他にも平家物語の登場人物ゆかりの地が沢山!
観光スポットとして未登録のためこちらに表示出来ませんでしたが、「鎌倉殿の13人」でも登場した頼朝の異母弟「源範頼」が越前市に落ち延びたという伝説があります(朽飯八幡神社、浄圓寺)。
「小倉百人一首」で有名な「蝉丸」ゆかりの地もありますよ!蝉丸が生きた時代は源平合戦の時代とは違うかもしれませんが、「平家物語にも記述がある」という口実でこちらにも載せました!まさか福井に墓があるとは意外でしょう?(参考> 織田文化歴史館「蝉丸」)
- 笛資料館【閉館】
- 【閉館しました】平治の乱に破れ、この地にかくまわれていた源義平が、上洛を決意し京に上る際、身ごもっていた妻に形見として一本の横笛…
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- 仏御前の滝
- 令和5年10月現在、土砂崩れのため立ち入り不能「日本百名山」荒島岳から流れ出る高さ100mに及ぶ三段の滝。滝の名は平清盛に愛され、舞の…
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- 幸若音曲発祥の地記念碑
- 幸若音曲(幸若舞)発祥の地の記念碑は、越前町社会福祉センター朝寿殿(越前町西田中)の正面玄関横にあります。幸若舞は、越前町西田中…
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- 蝉丸の墓
- 「これやこの ゆくもかえるも別れては 知るも知らぬも逢坂の関」の一首で有名な蝉丸の話が伝わっています。諸国を流浪の果て、越前に来て…
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- 越前二の宮 劔神社(剣神社)
- 劔神社は1161年に平清盛によって焼かれてしまいましたが、1164年に清盛の嫡男である平重盛が社殿を復興し、境内の小松建勲神社には平重盛…
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- 祇王祇女の屋敷跡
- 西藤島小学校の隣に、祇王とその妹の祇女が住んでいたと伝わる場所があります。祇王祇女は平家物語にも登場する白拍子(男装で歌い踊る遊…
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- 千古の家(坪川家住宅)
- 江戸時代初期に建てられた福井県内最古の茅葺民家。正面が入母屋造り、背面が寄棟造りの茅葺屋根で、外回りは杉皮張りの壁に障子の白が清…
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- 城福寺
- 真宗出雲路派の寺院で、庫裡の南側に庭園があり、国の名勝に指定されています。日野山系の山並みを借景とした山水庭園で、萱葺の茶室「雲…
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Column
「人間五十年」の舞「幸若舞 敦盛」も源平合戦!かつ越前発祥!
舞と言えば「人間五十年~」「織田信長が大好き」で有名な「幸若舞 敦盛 (こうわかまい あつもり)」。実はこの舞は越前発祥なのです!
また、多くの方々が「戦国時代のイメージ」を持っていると思いますが、内容は「源平による一ノ谷合戦における、源氏方の武将・熊谷直実が平家の武将・平敦盛の首を討つ悲劇の物語」なのです。(写真:幸若音曲発祥の地記念碑)
平家落人の里
全国200か所とも言われる「平家落人の里」。
源平合戦における「倶利伽羅峠の戦い」や「壇の浦の戦い」等にて「敗走した平氏の武将が隠れ住んだ里」と伝わる場所が数多く残ります。
(※落人の里は山深い場所であることが多いため、訪れる際は十分にお気を付けください。)
- 天満神社
- 平清盛の孫・平維盛は平家方の大将として戦い、今庄の燧ヶ城を舞台とした火打合戦で大勝しますが、倶利伽羅峠の戦いにて木曾義仲に敗れま…
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- 平家平
- 「平家平」は真名川上流域の巣原地区(市街地から約40km)にあり、源平合戦の「倶利伽羅峠の戦い(もしくは壇ノ浦の戦い)」で敗走した武将が…
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- 真名峡・麻那姫湖
- 大野市の真名川上流域、五条方発電所から約1km上流から真名川ダム付近にかけて発達する深い峡谷が真名峡。さらに上流には飢えに苦しむ村…
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- 梨子ヶ平千枚田水仙園(越前水仙群生地)
- かつて源平合戦にて戦いに敗れた平家の落人が、隠れ家として七ツの平(梨子ヶ平・大平(おおじゃら)・小羽ケ平(おばんじゃら)・雪ケ平(ゆき…
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Column
「落人の里」から移住した家々
戦乱が治まった後に「落人の里」から移住した家々もあります。
美山町赤谷から池田町東角間に移住し、平維盛の守護仏を伝える赤谷家は大きな石高の有力な家であり、幕末に「水戸天狗党」が宿泊したことでも知られています。
また同じく池田町には、他に加賀から移住した梅田家(名勝「梅田氏庭園」)、大野の平家平から移住した大西家(蒲沢村はその後廃村)等の平家落人の子孫の家があり、赤谷家とは烽火(のろし)で連絡をとりあっていたそうです。
(参考>平家物語へのいざない)
福井市美山地区の伝統野菜「河内赤かぶら」にも平家ゆかりの伝承が!
平家の伝承が残る福井市美山地区にて、800年以上栽培されているという伝統野菜「河内赤かぶら」。こちらの農作物にも平家ゆかりの伝承があります。この村に住み着いた平家が、平家の象徴である「赤色」であるかぶらの種と栽培技術を村人に伝え残したそうです。
「赤かぶ」と「平家」のつながりとしては、福井以外にも「平家の落人の里」として有名な五箇山の「五箇山赤かぶ」等、全国にいくつかあるようです。う~ん、たいへん興味深いですねぇ。
ここで「え?平家って赤色なの?」と初めて知る方も多いと思いますが、日本でよく用いる色使いの「紅白」は、「平家の赤」と「源氏の白」を表しているという説もあるんですよ!
上で紹介した平家ゆかりの「福井市美山地区の赤谷集落」のように、平家ゆかりのものには「赤」が多そうですね。
「鎌倉殿の13人」の主人公 北条義時の曾孫、北条時頼が伝えた水海の田楽能舞
福井県池田町に鎌倉時代から伝わるという「水海の田楽能舞」。
池田町では舞が伝わっているということは知っていましたが、「鎌倉殿の13人」の主人公 北条義時の曾孫「北条時頼」ゆかりの芸能だったとは…。
鎌倉幕府の執権であった北条時頼が諸国行脚をした際、雪で立ち往生し、水海で越冬した際に村人たちが「田楽」を舞って慰めたところ、時頼が返礼として「能舞」を教えたのが始まりと伝えられているそうです。
福井県花「越前水仙」の伝説は源平合戦時代が舞台
福井県花である越前水仙。福井市越廼(こしの)地区の居倉町には、源平合戦の時代を舞台とする「水仙物語」が伝承されています。
・居倉浦の長者、山本五郎左衛門は長男の一郎太とともに木曾義仲の軍勢に加わり、留守を次男の二郎太が守っていた。
・二郎太が居倉浦の浜を散歩していると波間から助けを求めるとても美しい娘がいた。二郎太は娘を助け、二人は日増しに親しくなった。
・戦いで負傷し片足になった一郎太が、父戦死の報とともに帰郷した。
・やがて一朗太と二郎太は娘をめぐり争うようになり、その年の冬に兄弟は荒れ狂う海岸で決闘することになった。
・娘は2人の仲を悪くしたのは自分のせいだと言い残し、荒波に身を投じた。かつて娘が助けられた時と同じ居倉浦の刀上海岸だった。
・翌春、その海岸に見たこともない美しい花が流れ着き、村人たちは娘の化身だろうとうわさし、その可憐な花を丘の上に植えた。
果たして「美しい娘」とは、平安時代頃と言われる「日本への水仙の伝来」を表現したものなのか、それとも「平家の落人」だったのか…。いずれにしても興味深い伝承だと思います。
越前水仙発祥伝説の碑(越前水仙の里公園の駐車場内)
(出典:越前水仙発祥の伝説『水仙物語』)
Column
越前海岸に凛と咲き誇る「越前水仙」
越前海岸は日本水仙の三大群生地の一つで、栽培面積約70haは全国一位を誇ります。水仙は、福井市・越前町・南越前町の越前海岸地域で栽培されており、「越前水仙」としてブランド化されています。
その発祥地は福井市居倉地区といわれており、急峻な斜面地で凛として咲く姿は、福井の冬の風物詩の一つとなっています。
僕は「鎌倉殿の13人」が始まる1年前頃から「福井と源平」を調べ始めましたが、まさかここまでゆかりの地が多いとは思っていませんでした。隣の小学校地区にもゆかりの地があり、その名前を冠した公園や会社があること等に気付きました。源平合戦は凄く昔のことかもしれませんが、僕らもその歴史の上に生きているんだなと感じました。
歴史を知ると色々なものの見方が広がりますね。大河ドラマを見る興味度も飛躍的に上がります。
皆さんと一緒に学んでいけるよう、これからも記事執筆を頑張りたいと思います。
それではごきげんよう~。