
瑞祥寺の歴史や成り立ちについて教えてください。
天文 15 年(1546 年頃)、ご開山の雷澤宗梭大和尚は大野の小山庄城主・斯波家久に請せられ、ここから少し離れた御給村に「萬年山 瑞祥寺」を建立しました。
その後、天正年間(1573~1592)に、大野城城主・金森長親公が町の東端にお寺を集めて「寺町」をつくった際、御給村から寺町に移転しました。
私が寺を継げば 29 代目になります。
「イボ神様」と呼ばれ親しまれているそうですね。
“この石碑の裏にある「くぼみ」に溜まった水に患部をつけるとイボがなくなる”との言い伝えがありますが、
実はこのいわれはお寺の口伝としては伝承されていなかったんですよ。
昔から町の人の間で伝えられている民間伝承で、いつから言われだしたのかはわかっていませんが、御利益を求めて訪れる方が今現在もいらっしゃる様子です。
ご本尊や本堂について教えてください。
ご本尊は釈迦三尊像です。
中央がお釈迦様で、その横の獅子に乗っているのが文殊菩薩様、象に乗っているのが普賢菩薩様です。
仏像がたくさんありますね!
左側は大野の旧家の持仏堂にあったものを寄贈された仏様です。
右は少し不思議なご縁でこちらに来られた仏像なんですよ。
先々代の夢に「御給村にいる私を迎えに来てほしい」と仏様からお告げがあったんです。
すぐに御給村に行き、寺の跡地を探し発見されたのがこの「秘仏十一面観音」です。
十一面観音様は、様々なものに姿をかえ、人々を導くとされています。
地域の人が集う場として、本堂では落語や演奏会を開いています。
もともと落語と仏教には深いつながりがあり、落語の起源は仏教のお説教だった、という説もあります。もっと気軽に仏教を知ってほしい、寺にも遊びに来てほしいとの思いから、様々なイベントを行っています。
コロナが落ち着いたら坐禅などのイベントも再開する予定です。
そして瑞祥寺では6月10日に大般若という法要を行います。
その折に西国三十三か所の掛け軸の展示も行っています。
西国三十三箇所巡りとは、四国八十八箇所遍路とならぶ代表的な巡礼で、京都を中心に三十三箇所ある観音の霊地を巡拝することです。
各霊地の「お砂」を札所として、ご本尊の掛軸と一緒に配置し、第1番札所から満願の第33番札所まで踏み巡ることで、すべて参拝することと同じご利益と功徳がいただけると言われております。
同日に、先ほどご紹介した秘仏十一面観音様の御開帳や「大般若経」の転読も行います。
大般若経とは何ですか?
昔、西遊記というお話がありましたよね、その中で玄奘三蔵法師が天竺に取りに行ったと言われている経典がこの大般若教です。全部で 600 冊あります。
600 冊も!読むのが大変ですね!
お釈迦さまの教えの集大成である大般若経 600 巻を読み上げる代わりに、経典を大きく開く作法で転読し、仏様への祈願・皆様の無病息災を祈念しています。
この時に起きる風に触れると願い事が成就するとも言われています。
皆様に聞きなじみもあるでしょう「般若心経」は、玄奘三蔵法師が大般若経600巻の精髄を、わずか262文字にまとめたものです。
道光さんは介護士・鍼灸師でもあるんですよね?
はい。小さなころから寺を継ぐ気持ちは漠然とあったんですが、あまり深く考えたことはありませんでした。
しかし修業を始めてから、お坊さん=人を救う、という使命の重大さにふと気づき、果たして自分にはその資格や器があるんだろうか、自分は人を救うような人間ではない、お坊さんとしてやっていけるんだろうか…と悩んでいました。
お坊さんだけではなく、他の仕事を経験したり、世の中についてもっと知らなければいけないと焦燥感もありました。そんな時、学生時代の先輩の「鍼灸師になる」という一言が響き、「この仕事なら、自分のような人間でも人を救えるかもしれない」と安易ではありますが、当時の自分は決意したんです。
心と体、両方を救う道に進まれたんですね。
そこから鍼灸の学校に進み、鍼灸師の修行をしながら国家資格も取り、福井に帰ってきてからは病院や介護施設で働き、介護の資格もとりました。
資格はとったものの鍼灸師として開業するにはなかなかふんぎりがつかず、このまま介護士として働くのかな、とぼんやり思っていたところ、介護施設のパワーあふれる利用者さん2人から気づかされる出来事があり、自分と向き合い考えてみました。
自分はやりたいことは何もできずに流されていたな、よし、やりたいことをやろう!と。
そしてお世話になった施設を辞め、千山鍼灸院を開院したんです。
あの2人はもしかして、姿をかえて助言を与え人を導くと言われている、私にとっての十一面観音様だったのかもしれませんね。
利用者さんから、体の不調だけではなく心のケアの相談を受けることもあります。
私にできることは少ないですが、少しでもお役に立てればと思っています。女性の方には美容鍼も好評です。
曹洞宗と言えば、坐禅ですよね。
そうですね。曹洞宗の坐禅は「只管打坐(しかんたざ)」、ただひたすらに坐るということです。 瞑想や悟りを達成する手段として坐禅をするのではありません。
「目的」やそれを行うための「意味」を持たない、ただ座る時間、それこそが「坐禅」なのです。
坐禅は瞑想に近い物だと思っていました。
瞑想というものを詳しく理解しているわけではないですが、精神の安定や集中力を高めることを目的としていると伺っています。
それに対し、坐禅には目的がなく、ただ座ればいいだけの時間なんですよ。
坐禅のいいところは「意味がない」というところです。
たとえば一日の行動って「目的が無い事をひたすらする」ことはあまりないですよね?
仕事や家事、移動はもちろん、暇つぶしや趣味なども、時には寝ることですら「明日予定があるから早く寝よう」等、行動には何かしら目的や意味がありますよね。
「意味」や「目的」に縛られ重荷になり、心身に不調をきたしているような方は鍼灸院でよく見かけます。
坐禅は坐った瞬間から、坐るという目的が既に達成されています。ただ「坐る」という事の他に、意味がある行動でもありません。
「意味」や「目的」から切り離された時間。簡単なように見えて、それを普段の生活で得ている方は少ないと思います。
坐禅はつらい修業ではないんですね。
人によっては例えば仕事や家庭、大切な方との別離など、人生の中で何かがのしかかり、それを背にのせたまま苦しむ方もいるかと思います。自分に乗っかっているものを替わりにその辺においてきて、身軽な状態になっていろいろな物から切り離す。
そうした役割が「お寺」や「坐禅」には昔からあったと思います。
曹洞宗には「仏道をならうというは自己をならうなり。自己をならうというは、自己を忘るるなり」という教えがあります。
自身の体験がそれにあっているとは申しませんが、坐禅をしていると、時折ふっと自分の周りの風景や、自分自身の体を文字通り「忘れて」しまうような、身体や脳がふっと楽になる感覚があります。
上手く座れば人によっては初めての方でも、ごく短時間でも得られることもあるようです。
坐禅道場まで赴き本格的に禅を組む、までの意気込みはないが、禅に触れてみたいなあ。
そんな風に気楽に坐禅に親しむお寺でありたい、と思っています。
大野市にお立ち寄りの際、ふらっと坐禅をしてみたくなった。そんなときは、是非お声かけください。
萬年山 瑞祥寺
《住所》福井県大野市日吉町5-3
《電話》080-6362-1300