真柄十郎左衛門は2人いた⁉太郎太刀の猛将とゆかりの地を徹底解説!(朝倉家最強家臣シリーズ)
この記事では、新発見の『真柄氏家記覚書』に基づき、2人の真柄十郎左衛門の謎、実在した太郎太刀の凄み、そして福井・全国に残る聖地を網羅してご紹介します!戦国ファンを魅了してやまない、超怪力、超巨漢の真柄十郎左衛門について、「完全真柄十郎左衛門マニュアル」を目指し、皆さんと一緒に深堀りして行きたいと思います!
- ライター:Tomo & Yasu
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真柄十郎左衛門とは?

浮世絵に描かれた真柄十郎左衛門
真柄十郎左衛門とは、戦国時代に一乗谷朝倉氏に仕えた、現在の越前市を拠点とした武将です。現代よりも平均身長がかなり低かった当時(155~160cm程度)において、なんと身長2m超!!、体重は200kg超の巨漢!!、そしてなんといっても「太郎太刀」と呼ばれる大太刀を振るう超怪力の猛将です。姉川の合戦においては、朝倉軍撤退の折、殿(しんがり)を務め、史実かどうかは不明ながら「徳川軍に単騎で突っ込み、12段構えの陣を8段まで突破した」とまで語られる、とんでもない人物です。真柄十郎左衛門や太郎太刀をモデルとしたキャラクタは、ゲーム、アニメにも数多く登場します。織田信長等の超メジャー旧戦国大名と比較すると一般的な知名度では劣るものの、戦国ファンの間ではたいへん知名度が高く、「マイナー界の超メジャー級武将」という(?)かなり特殊な存在です。
ところが、有名人でありながら、「真柄十郎左衛門」という名前が具体的に誰を指すのか不明瞭な部分がありました(上の浮世絵でも、一般的に言われている「真柄十郎左衛門直隆」ではなく「真柄十郎左衛門直澄」(直澄=一般的に直隆の弟とされている人物)と書かれています)。また真柄十郎左衛門が用いたという「太郎太刀」も全国の至る所に何本もあり、どれかが本物?それ以外は偽物?という疑問もあります。一体これはどういうことなのでしょうか?
2022年に福井県立歴史博物館が新たに発見し発表した、真柄一族の子孫が書き残した「真柄氏家記覚書」の新情報が、多くの謎を解き明かしました。それらの新情報を参考にしながら「真柄十郎左衛門とその一族」を「徹底的に」ご紹介したいと思います!
今回ご紹介する真柄一族ゆかりの地マップはこちら!↓
- 真柄十郎左衛門直隆の墓(興徳寺)
- 明神垣内地蔵尊(おこり地蔵尊)
- 真柄十郎左衛門直隆誕生の碑
- 真柄橋と呼ばれる巨石
- 大山咋神社(越前市宮谷町)
- 熊野新宮権現
- 霊泉寺
- 穴地蔵古墳
- 朝倉景鏡館跡
- 南陽寺跡庭園
- 伝・真柄十郎左衛門屋敷跡(詳細地不明)
- 真柄家子孫 田代家屋敷跡周辺
- 匂坂式部邸があった毛矢周辺
- 田代養仙の墓石(泰清院)
- 越前市徳間町(屋敷跡)※旧徳間町公民館を表示
- 宅良(館跡)※リトリートたくらを表示
- 千代鶴神社
- 千代鶴国光の墓(養徳寺)
- 玉泉寺
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真柄十郎左衛門は2名いた!?
「真柄十郎左衛門は一体誰を指す言葉なのか?」という疑問について、「真柄氏家記覚書」から明らかになった新発見は、かなり多くの新聞記事、ニュースサイトに取り上げられました。その新発見情報を取り上げたYoutube番組も多数登場していることからも、歴史ファンの中で大きなインパクトがあったことが分かります。それだけ真柄十郎左衛門について、多くの人達が関心を持っているのでしょう。
「真柄氏家記覚書」にて判明した系図を示します。
なお「覚書」の作者は、真柄一族の血を引く田代養山であり、養山が父 養仙や複数の人物から聞き覚えていたことを書き記したものです。

なかなか多くの名前を一気に把握することは難しいですが、分かり易く言うと、今まで一般的に「真柄十郎左衛門」とされてきた「真柄直隆」に加え、その父である「真柄家正(備中守/備前守)」も元々「真柄十郎左衛門」を名乗っていたということが分かりました。つまり多くの伝承は、2人の伝承が区別されずに伝わっていた可能性が高いということになります。
また、真柄家正、真柄直隆といった「十郎左衛門」以外にも、真柄の一族の多くは巨漢、怪力であり、同じように大太刀を振るう「野太刀の兵法」を使っていたようです。一般的に「真柄十郎左衛門の伝承」「真柄十郎左衛門が用いた太郎太刀」と伝わっているものも、実際は家正や直隆といった2人の「真柄十郎左衛門」のみならず、真柄一族の他の人物が総じて「真柄十郎左衛門」として、また真柄一族が用いたそれぞれの大太刀が総じて「真柄十郎左衛門の太郎太刀」として伝わっているようです。
そこで今回は「真柄氏家記覚書の新発見情報」等を元に、「真柄十郎左衛門」のみならず「真柄一族」について紹介していきたいと思います!(これは長くなるぞ…汗)
真柄一族の故郷「真柄庄」!
真柄の屋敷跡や菩提寺のあるエリアに入ると見えてくる「真柄」の標識!!テンション上がりますよね!きっと県外から来たファンの方々も、つい写真に撮ってしまうのではないかと思います。
こちらの項では、真柄一族の拠点である「真柄庄」に残る真柄一族ゆかりの地をご紹介します。本拠地なだけあって、菩提寺、氏神の神社、屋敷跡等、とても沢山のスポットがありますよ。ぜひ菩提寺である興徳寺へのお墓詣と合わせ、周辺のゆかりの地を徹底的に巡ってみましょう!
なお、真柄庄は「味真野(あじまの)」と呼ばれる地域にあり、現在の越前市上真柄町(かみまからちょう)、真柄町(まからちょう)、西尾町(にしおちょう)、宮谷町(みやだにちょう)辺りになります。現在は真柄と呼ばれるこの地は、元々は「勾(まがり)」と呼ばれていたそうです。実在の天皇としてほぼ実在が確実視されている最も古い天皇である継体天皇は越前で育ったと伝わりますが、真柄庄は継体天皇の第一皇子である「勾大兄皇子(まがりのおおえのおうじ)」=「後の安閑天皇(あんかんてんのう)」が誕生した地とされ、そこから「勾(まがり)」と名付けられたと伝わっています。
…ところで、真柄一族の姓としての「真柄」は一般的に「まがら」と読むのですが、地名の真柄は「まから」なんですね。「まがり」は「まがら」に近い気もしますが…。この辺りは引き続き調査を続けます!
- 真柄十郎左衛門直隆の墓(興徳寺)
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- 真柄十郎左衛門及び一族の菩提寺。備中守家正、十郎左衛門直隆、十郎隆基のものと思われる位牌があります。
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- 明神垣内地蔵尊(おこり地蔵尊)
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- 元亀元年(1570年)に姉川の合戦にて討死した真柄十郎左衛門直隆を悼み、親・親族により翌年に建立されたと伝わります。
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- 真柄十郎左衛門直隆誕生の碑
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- 越前市真柄町の県道194号沿いにある、「十郎左エ門奉賛会」により平成3年に建立された碑石です。
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- 真柄橋と呼ばれる巨石
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- 昔、越前市萱谷を通りがかった真柄十郎左衛門が一人で巨石をかかえ川の橋に架けたという伝説があります。この巨石は「真柄橋」と呼ばれ、現在は味真野小学校の前庭にあります。
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- 大山咋神社(越前市宮谷町)
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- 明治時代の由緒書には「明応年中 地頭真柄備中守社殿を造立す」という記載があります。(真柄備中守=真柄十郎左衛門=真柄家正)
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- 熊野新宮権現
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- 真柄氏が社殿を改築したと伝わります。真柄景忠左馬助は兵法の達人であり、熊野権現の御前にて鍛錬していたそうです。なお熊野権現と真柄氏菩提寺の時宗とは深いつながりがあります。
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- 霊泉寺
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- 真柄家重は姉川合戦に参陣し討死しました。郎従によりその首は越前に帰り、霊泉寺に葬られたそうです。
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- 穴地蔵古墳
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- 7世紀頃造成の横穴式古墳。真柄家の先祖、真柄家光が1501年に供養のため掘らせたと思われる地蔵菩薩立像と銘文が刻まれています。(写真 : 武生市の文化財(1979武生市教育委員会))
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一乗谷朝倉氏遺跡に残るゆかりの地
真柄庄から少々離れた、福井市の一乗谷朝倉氏遺跡周辺にある真柄一族ゆかりの地を紹介します。一乗谷は主君として仕えた朝倉氏の本拠地であり、「朝倉義景、朝倉五代の栄えた一乗谷か~」と忍びながら訪れる方がほとんどだと思いますが、真柄十郎左衛門ゆかりの地としても非常に興味深い地であります。
なんといっても新発見情報の中でも一番の驚きだったのは、北辰一刀流等を含む「一刀流の祖」であり越前朝倉家の最強剣術家としても知られる小太刀の名人 富田勢源と真柄左馬助景忠の対決があったということです!こちらは「朝倉家最強家臣に迫る!朝倉宗滴、真柄十郎左衛門、富田勢源!」の記事に詳しく書きましたので、是非読んでみてください!
なお江戸時代初期の剣豪 佐々木小次郎は一乗谷すぐ近くの出身であり、富田勢源の弟子とも言われていますが、真柄十郎左衛門ほどではないにせよ、長刀「物干し竿」(刃長3尺(約1m)超)を用いていたとされていることも興味深いですね。

真柄氏家記覚書(真柄左馬助景忠と富田勢源(戸田清元)の対決部分)
- 朝倉景鏡館跡
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- 朝倉景鏡が、大太刀の達人 真柄景忠(左馬助)と小太刀の達人 富田勢源の対決を望み、断り切れずに対峙した景忠は、大太刀で松を截り落としたのみとしたそうです。
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- 南陽寺跡庭園
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- 永禄11年(1568年)春、朝倉義景は足利義昭を南陽寺に招き、桜を楽しむ歌会を盛大に開催しもてなしました。真柄直隆・隆基父子は太郎太刀、次郎太刀を振り回し、見ていた人々はたいへん驚いたそうです。
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- 伝・真柄十郎左衛門屋敷跡(詳細地不明)
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- 「越前国古城跡并館屋敷蹟(城跡考)」には「屋敷跡 朝倉家 真柄十郎左衛門 一乗谷東新町村北方田畑之内ニ在」と書かれています。一乗谷に赴いた際に用いる屋敷だったのでしょうか。(写真は地理院地図の1960年代航空写真から)
- 国会図書館デジタル
Column
一乗谷に残るゆかりの地はこちらをどうぞ!
燦然と輝く朝倉家の最強家臣、朝倉宗滴、真柄十郎左衛門、富田勢源のゆかりの地を紹介します。この項で紹介した3つの場所について分かり易く説明しています。
真柄家の仇 匂坂式部、真柄家子孫 養山は、ともに福井駅周辺に住み、しかも接触していた!?
■真柄十郎左衛門を討ち取ったのは誰か?
「真柄十郎左衛門を討った人物」としては、徳川軍の武将「青木一重」説、また同じく徳川軍の武将「匂坂式部(鷺坂/向坂)(さぎさかしきぶ)」説があります。青木家には真柄の兜が伝わっており(港区郷土資料館 伝真柄直基所用 野郎頭兜)、また近江彦根藩匂坂家には真柄の大太刀が伝わっているそうです。うーん、どちらも嘘では無さそうな雰囲気…。先述のとおり、「真柄十郎左衛門」を名乗った人物は、真柄家正や真柄直隆の2名が存在していることをご紹介しましたが、青木一重も生前に「あなたが討ち取ったのは真柄か、真柄の子か」と聞かれ、一重もはっきりと明言していないことから、江戸時代初期には既に「誰を」という点において、混乱があったようです。
「真柄氏家記覚書」によると、なんと覚書の作者である真柄家の子孫 養山は、真柄十郎左衛門の仇である匂坂式部に会い、戦いの顛末について直接話を聞いているそうです!匂坂式部本人によれば、討ち取ったのは真柄十郎左衛門家正(父の方)であったようです。
■真柄家の仇 匂坂式部は結城秀康に仕え、福井城下に住んでいた!
姉川の合戦にて真柄十郎左衛門を打ち取った匂坂式部。
有名な「姉川合戦図屏風」では、つい真柄十郎左衛門ばかり見てしまいますが、戦っている相手として確かに匂坂式部が描かれていますね。

姉川合戦図屏風に描かれる真柄十郎左衛門(左)と匂坂式部(右下)
匂坂式部は合戦以降、消息が不明とされていましたが、「真柄氏家記覚書」 には「此式部後ニ黄門秀康卿召テ住宅ス」と記載され、結城秀康に仕え、福井市毛矢に住んでいたことが分かりました!福井市毛矢というのは、福井駅から、幸橋(さいわいばし)(※小説「君の膵臓を食べたい」表紙のモデル)を通り、足羽川を渡った南側の場所に当たります。(幕末の福井藩士 由利公正(光岡八郎)も住んでいた辺りであり、坂本龍馬も訪れた由利公正宅跡、由利公正像があります。)
現在の福井市毛矢付近(左手に見えるのは由利公正像)
[注:画像使用許可申請中]
北之庄城郭図(デジタルアーカイブ福井)の南西に見える匂坂式部邸
※「鷺坂式部」と書かれています。くずし字での「部」は「ア」のように書かれます。
■真柄家の子孫 田代養仙,養山は現福井駅前の恐竜モニュメント付近に住んでいた!
多くの真柄一族が姉川の合戦にて敗れた後も生き延びた、田代養仙とその息子である田代養山は、福井城下の「百閒堀(ひゃっけんぼり)」の東側に屋敷に住んでいました。一般的に堀は後世に埋められ道路となった場合が多く、百間堀は今の福井駅前の大通り付近となります。つまり、現在福井駅前にある「恐竜モニュメント」辺りに住んでいたということになります!
真柄ファンの方は、恐竜モニュメントの前に立ち、「生き延びた真柄の子孫の営みがこの辺りにあったのか…」と思いを馳せて頂けると幸いです。
[注:画像使用許可申請中]
御城下絵図に見える田代養山邸
なお、養山は父 養仙の他複数の人物から話を聞いていたようで、朝倉義景最後の直前まで側で使えた策庵という齢80頃の痩せた老人や、一乗谷の繁栄をよく知る老人達が涙を流しながら昔話を話していたそうです。歴史の転換期の狭間において、表向きの歴史書には表れなくても、名も無き多くの人の営みがそこにはあったということを感じさせる、とても意味深いエピソードだと思います。
なお、田代養山の父である田代養仙は福井市西木田の泰清院に眠っています。キリシタンとしても有名であったようです。
参考文献:足羽山の主な史跡と墓碑石(1988 福井市立郷土歴史博物館編 福井市立郷土歴史博物館) , 古河藩領とその周辺の隠切支丹(1986 日本図書刊行会 川島恂二著)
- 真柄家子孫 田代家屋敷跡周辺
- 匂坂式部邸があった毛矢周辺
- 田代養仙の墓石(泰清院)
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- 真柄家子孫 田代家屋敷跡周辺
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- 真柄一族で生き延びた田代養仙,養山の屋敷は、福井城下の百閒堀の西側にありました。現在の福井駅前にある「恐竜モニュメント」付近に当たると思われます。
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- 匂坂式部邸があった毛矢周辺
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- 姉川の合戦にて真柄十郎左衛門を打ち取った匂坂式部は合戦以降、消息が不明とされていましたが、結城秀康に仕え、福井市毛矢に住んでいたことが分かりました(リンク先の幸橋より南辺りが毛矢)。
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- 田代養仙の墓石(泰清院)
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- 真柄家子孫 田代養仙(田代養山の父)の墓は福井市西木田の泰清院にあります。
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Column
橋本左内は真柄一族と親戚だった!?
福井県立歴史博物館が2021年に購入した田代家文書約90点では真柄家の貴重な情報の他にも橋本左内に関する貴重な情報も含まれていました。左内の父、長綱の実家は田代家であり、文書から田代家の詳細な系図をたどることができました。先祖には医聖と称された戦国時代の医師 田代三喜(さんき)につながり、真柄家ともつながります。血は繋がらないものの、真柄十郎左衛門と橋本左内は遠い親戚だったのです!(なお橋本家の先祖は、織田信長で有名な「人間五十年」の「幸若舞 敦盛」創始者である桃井直詮と伝わります。)
その他、福井県内に残る真柄ゆかりの地
これまでの記事の中で紹介していない場所を以下に紹介します。
なお、越前国古城跡并館屋敷蹟(城跡考)のような古い記録や、越前国之図(1685~/デジタルアーカイブ福井)には「〇〇の屋敷跡」が多数記載されています。きっと現代のように土地改良や宅地化が進む以前は、田畑等の中に「屋敷跡」が分かる形状が長年はっきりと残っていたのでしょうね。国土地理院が公開する年代別の航空写真から見て取れる田畑に残る形状はたいへん興味深いので、ぜひ一度ご覧ください!→地理院地図(越前市真柄町/上部のスライダーにて2021年と1960年代の比較可能)
■越前市上真柄町徳間
上にある写真は、真柄庄の越前市上真柄町徳間の民家の庭にある屋敷跡の祠です。個人宅であるため住所は公開出来ませんが、御厚意により写真の撮影と公開を了承頂きました。現時点ではネット上には情報が無く、書籍においても郷土資料以外にはあまり記述が見られない、大変貴重な写真です。
■宅良(たくら)
詳細な位置は分かっていませんが、古地図 越前国之図(1685~/デジタルアーカイブ福井)に館跡の記載があります。
出羽守と称した真柄家宗は剛強な体躯であり、武者修行のために諸国を廻りました。はじめは現在の山口県を拠点とする周防大内(すおうおおうち)氏に仕えましたが、朝倉氏より丁重な使者が派遣されたため、朝倉氏に仕え、宅良谷(現南越前町宅良)を恩賞として賜りました。また金ヶ崎合戦の際には真柄家正は宅良谷から出陣したそうです。
現在「宅良」には、蕎麦体験やバーベキュー等を楽しめる「リトリートたくら」がありますよ。
■敦賀市沓見(くつみ)
一乗谷朝倉家の地位を盤石とした最強家臣「朝倉宗滴」の娘「清心」は真柄十郎左衛門直隆の妻でした。朝倉宗滴が敦賀の金崎城に居城した際、沓見村の屋敷に真柄十郎左衛門直隆(家正か直隆かは不明)が住んでいたと伝わります。朝倉滅亡後、清心はこの地に移住し、三男(孫?)の源太夫隆重も住んでいたと伝わります。なお、沓見に近い玉泉寺では「真柄十郎左衛門直隆・玉泉院清心比丘尼」「十良太郎隆基・源六郎真信・源太輔隆重」という二つの位牌が見つかっています(隆重は越後塩俵真柄家の祖とされる人物)。
敦賀には真柄屋敷跡の他に、真柄氏の守護神である西神社があり、西神社には真柄氏ゆかりと伝わる牛石があります。
- 越前市徳間町(屋敷跡)※旧徳間町公民館を表示
- 宅良(館跡)※リトリートたくらを表示
- 玉泉寺
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それは刀と言うにはあまりにも大きすぎた!太郎太刀、次郎太刀として有名な真柄の大太刀!

真柄十郎左衛門および真柄一族といえば、なんといっても愛用の大太刀「太郎太刀」「次郎太刀」!!まるで某漫画の主人公が持っている剣のような嘘みたいな大きさです。
一族の大太刀が全国に伝わっていますが、伝・太郎太刀の実物が収蔵されている名古屋市 熱田神宮の宝物館「草薙館」では、太郎太刀、次郎太刀の展示とレプリカの体験コーナーは同館の目玉展示となっています。
明智光秀の物語「明智軍記」には「越府ノ千代鶴ト云ケル鍛冶」が太郎太刀、次郎太刀を作ったと書かれており、熱田神宮の伝・次郎太刀も朱銘は「千代鶴国安」となっています。真柄氏家記覚書にも、一族である真柄左馬助景忠について「府中の鍛冶師千代鶴を召し、仮屋・鞴ふいごを建て、九尺九寸の太郎太刀、八尺の次郎太刀を作った」という記述があります。
千代鶴国安こそ700年以上続く越前打刃物の祖であり、現在の越前市にある「千代鶴神社」に祭られている人物です。千代鶴国安は気に入った刀が出来るごとに砥石を削り狛犬を作り、「千代鶴の池」に沈めたという言い伝えが残っています。この「千代鶴の池」は今も千代鶴神社境内に残り、昔は清水が湧いていたそうです。国安はこの池の畔に住居を構え、この水を使い刀剣を鍛えたと言い伝えられています。昭和7年、地元の人たちによって池の掃除が行われた際、池の底から石製狛犬10個余りと刀剣一振が引き上げられました。この時の狛犬のどれかに、もしかすると真柄の大太刀を作った時のものも含まれていたのかもしれませんね!
国会図書館 福井県南条郡誌(昭和9年 福井県南条郡教育会) P619 刀匠千代鶴
国会図書館 福井県南条郡誌(昭和9年 福井県南条郡教育会) P564 越前打刃物同業組合

『明智軍記』(国文学研究資料館所蔵) 二巻 12/43
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/200005236
- 千代鶴神社
- 千代鶴国光の墓(養徳寺)
- 越前千代鶴の館(越前打刃物振興施設)
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古流剣術家の方に大太刀について聞いてみた!

僕は剣道を学んだ経験があるため、剣道で用いる竹刀や木刀には慣れており、刀も同様に振ることが出来るものだと思っていました。ところが初めて模擬刀(切れない刀)を持った際、竹刀や木刀とは比べ物にならない相当な重さに驚き、通常サイズの刀でさえ「剣道のようにサッと振りかざし、サッと振り下ろす」という動きは「全く不可能」だと痛感しました。そのような「重さを無視した振り方」をした場合、間違いなく肩が壊れてしまうと思います。(なお、かつて多くの修学旅行生が購入したという「お土産の木刀」は、剣道に用いる軽めの木刀よりも遥かに軽い「玩具」であります。)
通常サイズの刀でさえ驚きの重量、しかも真柄十郎左衛門の太郎太刀と伝わるものの中には3mを超す大太刀もあります!実際に熱田神宮の宝物館「草薙館」の目玉展示である「太郎太刀のレプリカ」でも分かるように、常人には振ることはおろか持つことさえ難儀な代物なのです!
大太刀とは一体何なのでしょうか?本当に人間に扱えるものなのでしょうか?
そこで、知り合いの古流剣術家の方に聞いてみることにしました!
・大太刀の使い方は大きく2通りあり、大勢との戦闘と門塀等の破壊。
・大勢との戦闘では、居着き(動きが止まってしまうこと)を避けるため、体に添わせて戦うことが多くなる。
・大将を討ち取れば終結する戦闘においては、遠方からの一太刀で斬撃することもある。
・門塀の破壊には振りかぶった一太刀が効果的。
・朝倉隊の力士隊は、おそらく最前列に投入され、陣形突破や防御柵破壊等で突破口を作るために用いられたのではないか。
・体が軽い場合は太刀の振り下ろしに身体が持っていかれてしまうが、特に体重が200kgもある巨漢であれば、振りかぶった大太刀の遠心力に抗することも可能かもしれない。
・自分が真柄の太刀と戦うのであれば、低い姿勢から懐へ飛び込み、力の根源である足、または刀操をつかさどる指(親指、小指)を狙う。
・一丈の距離を詰めるのは至難の業だが、巨漢は低い姿勢で進む相手を薙ぐのは少々困難であり、攻めが早ければ早いほど縦の斬撃になると思われる。
・巨体、怪力の真柄であれば、切り落としから薙ぎ払いに移る速さも尋常ではないかもしない。
・二人で戦えば勝機はあるかもしれないが、一人で戦うには命がいくつあっても足りない。
…うう、想像するだけでも恐ろしい…。
いくら真柄十郎左衛門が疲労していたとはいえ、彼を討ち取った匂坂兄弟の覚悟は計り知れません…。
真柄家先祖の逸話〜曹洞宗開祖 道元との関係とは?

福井には曹洞宗大本山 永平寺があります。永平寺を建立した曹洞宗の開祖 道元禅師が越前(福井)に入るきっかけとなったのは、鎌倉時代中期の武将 波多野義重(はたのよししげ)が所領の越前に道元を招き、土地を寄進したことです。永平寺14世 建撕(けんぜい)による道元禅師の伝記的文献「建撕記(けんぜいき)」には、波多野義重と共に俗弟子(出家せず仏道修行を行う弟子)である「覚念(かくねん)」が紹介されています。覚念は波多野義重の従兄弟であり越前国を所領地に持つ武士であったと思われ、「建撕記」の訂正・補足の文献には「覚念ハ(中略)、北村(現在の越前市北町)真柄備中守・真柄左馬助等ノ先祖ナリ」と記載されています。覚念は道元にとって波多野義重と共に極めて重要な人物であり、道元が赴いた際には波多野義重と共に同行したと考えられています。また道元が亡くなった場所は、道元が療養のため滞在していた京都の覚念邸であったと伝わっています。
参考: 波多野義重:道元禅師の外護者(1992 鈴木米三著)
建撕記布皷 : 承陽大師行状 訂補(1921 円通寺認可僧堂)
なお余談ではありますが、東尋坊の名前の由来となった伝説「平泉寺の僧である東尋坊を、恋敵である真柄覚念が海に突き落とした」に登場する「真柄覚念」とは別人物だそうです。この東尋坊の伝説上の日付は1182年4月5日。真柄の祖である覚念も関わった「永平寺の創建」は1244年。やや時代が合わないですね。それにしても、真柄氏の姓と真柄氏の先祖「覚念」の名が揃っているのは奇妙な偶然ですね(偶然が過ぎるような…)。
全国各地に残る真柄一族の流れ
姉川の合戦以降も生き延びた真柄一族の足跡が全国各地に残っています。それぞれの記録には「豊臣の臣」や「浅井家臣」等といった明らかな謝りも散見されますが(周りの民が語り継いだのでしょうか)、概ね「越前から逃れた真柄一族」の物語が記されています。
※国会図書館のアカウントを登録されていれば、リンク先の参考図書を読むことが出来ますよ。
※あくまで国会図書館収蔵書籍等の紹介であり、それぞれの歴史的な真偽について言及するものではありません。
※筆者が調べた範囲のものであり、他にもあるかもしれません。
■石川県金沢市:真柄地蔵
概要「姉川の合戦の地には真柄一族を弔った真柄地蔵があったが、真柄家の子孫が郷里に移設した。現在は金沢市の真柄家の墓所にある。」
■新潟県新津市:真柄庭園,新津油田
概要:「真柄十郎左衛門の次男 十郎次隆重は1605頃にこの地に定着し、武士の勤めには懲りて農を志した。彼が開墾した地は柄目木(がらめき)新田といい、1667年には家数27軒、241人の集落となった。」
「真柄十郎左衛門の次男 仁兵衛(十郎次)が伊勢に逃れた後に越後に入り、油田を発見した。」
参考:新潟県の庭園 下越・佐渡地区 (1989新潟県教育委員会)
越後のくそうず (1976新潟県教育委員会) , 新潟県秋葉区ホームページ
■山形県:真柄村,真柄地蔵
・戸沢村古口:真柄村にあった真柄楯
概要「豊臣(朝倉の誤り?)の臣真柄十郎左衛門がいたとされ、その楯(屋敷)には美しい姫が住んでいた。」
・鶴岡市山王町:真柄地蔵
概要「姉川の合戦にて討死した浅井(朝倉の誤り?)の豪将真柄十郎左ヱ門の子供が庄内に逃れ先祖を弔った。真柄家守護の真柄地蔵は大昌寺に現存。」
参考:筆濃余理 下巻 (1978鶴岡市) , 庄内と人物:ものがたり(1988大泉散士著)
■福島県会津若松市:真柄十郎左衛門の墓
概要「真柄十郎左衛門が戦に敗れた後、末子が姉の嫁ぎ先を頼り、夫の下坂八郎左衛門康継に養われた。下坂の姓を名乗り、康継が業とする刀槍鍛錬の術を学び、下坂家の初代為康となった。下坂家の菩提寺である専福寺には真柄十郎左衛門之墓がある。」
参考:会津先賢者の墓石を訪ねて 第2号 (会津若松旧市内寺院) /上(1990栗城訪霊著)
■福岡県:八女手漉和紙
概要「発祥は日蓮宗の僧日源。越前五箇村(越前和紙の産地=真柄庄から近い)の真柄重良左衛門(十郎左衛門?)の三男 四郎太景元が出家し日源と称した。日源は故郷の弟達を伴い、製紙の法を伝えた。」
- 山形県戸沢村古口(旧真柄バス停)
- 新津油田(煮坪)
- 九州製紙の祖 日源上人銅像(福王寺)
- 真柄地蔵(大昌寺)
- 真柄十郎左衛門之墓(専福寺)
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姉川合戦屏風絵を見に行こう!

姉川合戦図屏風(福井県立歴史博物館)
現在の滋賀県長浜市にある近江国姉川にて織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍が戦った「姉川合戦」。この戦いを描いた「姉川合戦図屏風」があります。屏風の左側には徳川家康の本陣、右には朝倉軍が描かれています。真柄十郎左衛門や、本多忠勝といった有名武将が描かれています(姉川合戦は元亀3年(1570年)、描かれたのは天保8年(1837年)になります)。
この屏風絵は、福井県立歴史博物館にて公開されることがあります。戦国ファンは要チェック!
なお「福井県立歴史博物館 収蔵品データベース」でも公開されており、隅々まで拡大し、じっくり見ることが出来ますよ。
父は優男!母は大女!講談「真柄のお秀」

「講談」とは、張り扇(はりおうぎ)で釈台(小さな講話台)を叩きながら、歴史的な物語を読み上げる日本の伝統芸能です。見た目は落語に似ていますが、非常に歴史が古く、またその始まりは「太平記読み」と言われています。
「講談」には「真柄のお秀」という演目があり、大阪講談協会ホームページでも紹介されています。
豪傑真柄十郎左衛門の父と母の馴れ初めについての内容となっています。簡単に概要をご紹介します。
・越前一乗谷 朝倉弾正の家臣 「真柄刑部(ぎょうぶ/25)」は、文才は優れるも戦場では役に立たない優男。
・刑部はせめて自分の息子は豪傑にしたいと思い、身体の丈夫な嫁を探していた。
・ある日の宿場にて大女「お秀(18)」に出会い、刑部はつい気まぐれでお秀に求婚、お秀はその気になってしまう。
・その気が無く越前一乗谷へ逃げ帰った刑部を、お秀が訪ねたが刑部は逃げ回り何日も家を留守にした。
・お秀は刑部の主君である朝倉弾正に直訴。弾正は刑部に夫婦になるよう申し付ける。
・主人には逆らえず、刑部はお秀と夫婦となり、大変な貞女であるお秀を寵愛するようになった。
・やがて生まれた元気な男の子こそ、その後「越前の赤鬼」と呼ばれる豪傑「真柄十郎左衛門」であり、
姉川の戦いでは徳川四天王の本田忠勝と壮絶な一騎打ち勝負に臨むのであった。
史実かどうかは別にして、まだテレビや漫画が無かった頃に、講談、読物、浮世絵等で取り上げられるような一大キャラクターであったということが分かりますね。実際に「国会図書館デジタルコレクション」で検索すると、古い時代の「真柄十郎左衛門」関係本が数多くヒットします。
「真柄氏家記覚書」を発見した福井県立博物館 大河内学芸員に聞く
戦国・真柄十郎左衛門ファンに激震が走った2022年の真柄氏家記覚書の発表。僕にとってもこの新情報こそが今回の記事を書く原動力になりました。真柄十郎左衛門の歴史の1ページ(1ページどころではない!)に名前を刻んだと言っても過言ではない、真柄氏家記覚書発見者である学芸員 大河内勇介さんからコメントを頂きました!

福井県立歴史博物館 学芸員 大河内勇介さん
「私自身、真柄氏家記覚書を発見した時は、大変驚き、興奮しました。全国各地に残る真柄十郎左衛門伝承の裏側に潜む、真柄一族の実像が少しづつ見えてきました。新発見資料により歴史的事実が明らかになる、これが歴史研究の醍醐味ですよね。真柄一族の実像だけでなく、関連スポットや歴史研究の醍醐味まで分かりやすくお伝えいただいたこの記事に感謝です。ご興味を持たれた方はぜひゆかりの地に足をお運びください。」
↓大河内さんが紹介された新聞記事
2022.05.08 読売新聞「ゲーム「信長の野望」にも登場、戦国時代の豪傑・真柄十郎左衛門は2人いた」
2022.07.03 中日新聞 「姉川合戦で活躍、匂坂式部の足跡 福井の学芸員が磐田の子孫訪ねる」
2023.02.26 朝日新聞「武勇「87」の人気戦国武将に新発見続々、3メートルの太刀にも新説」
↓大河内さんによる「ふくい歴史講座 戦国時代の真柄氏」はこちらで見ることが出来ますよ。
Column
必読!大河内学芸員による「戦国時代の真柄氏―真柄氏家記覚書の紹介―」
福井県立歴史博物館が2020年に入手し、2022年に発表された「真柄氏家記覚書」。こちらの発見者である学芸員の大河内勇介さんによる詳しい解説書が「福井県立歴史博物館紀要 特別号」です。非常に興味深い情報が多数記載されていますので、ぜひじっくりお読み頂ければ幸いです。
最後に
- 筆者

- 真柄十郎左衛門、どうだったでしょうか?僕は元々この武将のことは知らず、大河ドラマ「麒麟がくる」頃に明智軍記を読み初めて知りました。しかし「2mを超す巨漢!?3mを超える大太刀!?んなアホな!!」と思いました。通常は「伝説上の人物orかなりの誇張」であるはずが、多くの軍記等に書き残され、また大太刀も現存することから、本当にそんな人物が実在したのか!?と興味を持ちました。見渡してみると多くのアニメ、ゲーム等にも登場し、Youtube動画の多さからもとても多くの人の気持ちを掴んでいることが分かりましたが、その割には情報が少なく「やはり朝倉家が滅んだ以上、あまり情報は残っていないのだろうな…」と残念に思っていました。ところが「真柄氏家記覚書」が発見されたことを知り、大変興味深いその内容を多くの人に伝えたいと思い、越前市や他の地に今も残る真柄一族の足跡を辿り、この記事を1年以上かけて執筆しました。本拠地の味真野・真柄庄は北陸新幹線「新たけふ駅」からもとても近いので、ぜひ訪れて頂けると幸いです。