福井市の歴史をたどる。徒歩で巡る「幕末の偉人、橋本左内と由利公正のゆかりの地」
幕末維新の激動の時代に、重要な役割を担った福井藩。 日本を平和的改革に導こうとした松平春嶽とともに、活躍した福井藩のブレーン橋本左内、三岡八郎(由利公正)。彼らは、徳川親藩(松平家)藩士でありながら、ときには幕末の志士と手を結び、あるときは対立しながらこの福井で新しい国づくりに邁進していったのです。西郷隆盛からも慕われた橋本左内、坂本龍馬と親交の深かった由利公正のゆかりの地をめぐります。 幕末維新、2021年NHK大河ドラマ『晴天を衝け!』の主人公、渋沢栄一が生きた激動の時代は、福井藩が重要な役割を担っていました。そのキーマンが松平春嶽や橋本左内、三岡八郎(由利公正)です。彼らの活躍や功績を垣間見られるスポットが満載のコースです。
- 所要時間
- 日帰り(3~6時間)
- 交通手段
- バス、徒歩
福井県護国神社
大丈夫(ますらお)のお守りが有名
福井市立郷土歴史博物館
福井藩、越前松平家に関する資料も充実
福井藩主であった松平家の資料を中心に、城下町の暮らしぶりや戦災、震災などの資料を常設展示しています。 また実寸台大の復元模型やCGを使った展示、さらに「へんしん越前屋」では江戸時代の衣服や道具を体験することも出来ます。
- 住所
- 宝永3-12-1
- 電話番号
- 福井市立郷土歴史博物館 0776-21-0489
- 営業時間
- 9:00~19:00(3月1日~11月5日)*ただし入館は18:30まで
9:00~17:00(11月6日~2月末日)*ただし入館は16:30まで - 休業日
- 年末年始(12月28日~1月4日)と展示替えによる臨時休館日。
7分
橋本左内生家跡
激動の時代を駆け抜けた志士の生家跡
莨屋旅館(萬屋旅館)
由利公正と坂本龍馬が新政府の構想について会談した逸話が残る
- 住所
- 照手1-14
左内公園
左内が誓いを立てた啓発禄の碑と墓所がある
橋本左内の墓と像がある。橋本左内は、幕末の福井藩士。藩主松平春嶽の右腕として、将軍継嗣問題、外交問題について開国派として奔走。しかし、安政の大獄により捕らえられ、26才の若さで斬首された。
- 住所
- 左内町7−7
- 営業時間
- 見学自由
百坂
急勾配の階段坂で、愛宕坂に合流する百坂。石段には笏谷石が用いられています。
左内公園から、足羽山へ向かい、水道記念館の脇の百坂へ。途中横坂に入ると、幕末の歌人橘曙覧の歌碑があります。
百坂の登り口には、斎殿清水(ゆやのしょうず)と言われるわき水が出ていた跡地があります。
福井の幕末の歌人、橘曙覧の妻は、毎日その清水に水を汲みに行っていました。雨の日などは道がぬかるみ大変に苦労したというエピソードが曙覧の読んだ句に残っています。
- 住所
- 足羽1丁目
- 営業時間
- 見学自由
2分
橘曙覧記念文学館
横坂から橘曙覧記念文学館の中にある橘曙覧と健子の親子像を眺めれる。その先、笏谷石の石畳「愛宕坂」を下りましょう。
橘曙覧は、明治時代に正岡子規が絶賛したことで、広く世に認められた幕末の歌人です。 橘曙覧記念文学館は、曙覧の旧家「黄金舎(こがねや)」跡に建てられています。 曙覧は21歳でこの愛宕(あたご)山(現、足羽山)の黄金舎に隠棲し、清貧の暮らしのなかから、生活・社会・自然を奔放に詠みつづけていました。 文学館では、橘曙覧が住んでいた「藁屋」の一部を推定復原したコーナー、曙覧の書、作品、生涯・幕末の関連人物を紹介するコーナーなど、曙覧のさまざまな世界を知ることができます。
- 住所
- 足羽1-6-34
- 電話番号
- 福井市橘曙覧記念文学館 0776-35-1110
- 営業時間
- 9:00~17:00(入館は16:30まで)
- 休業日
- 年末年始(12/28~1/4)、
臨時休館日
由利公正宅跡
五箇条の御誓文の草庵を作った由利公正ゆかりの地。由利公正は、渋沢栄一と同じ時代を生きた偉人で、後に東京都知事となったことでも有名。
横井小楠に師事し、福井藩財政を再建した福井藩士由利公正は、明治新政府で金融財政を担当し、「五箇条の御誓文」起草にも参画。 現在の足羽川河川敷のところにあったとされている由利公正(当時は三岡八郎)の居宅跡には石碑が建てられている。 宅跡のあたりは、「毛矢侍」と呼ばれる下級武士が住んでいた地域で、由利公正は、この地から福井藩の重要な家臣として出世していく。
- 住所
- 毛矢2-1
- 営業時間
- 見学自由
明道館跡
松平春嶽が建てた藩校
福井藩主松平春嶽が日本を背負って立てるような人間を育て上げる目的で安政2年(1855)に建てた藩の学校です。
安政4年(1857)1月に橋本左内が学監心得(今でいう校長)に任ぜられ、明道館の改革が始まりました。橋本左内は福井城下4箇所に子供たちのための塾と武芸の稽古所をつくり、藩内の道場を全て明道館に併合。また法律学校を新設し、欧米の優れた学問を広く学ばせようと進めました。
明治2年(1869)には、場所を福井城内に移転し、名前も「明新館」と改めます。その後、旧制福井中学校、福井尋常中学校、そして現在の福井県立藤島高校へとつながっています。
現在は、明道館のあった跡地、ビルの片隅に小さな石碑が建っています。
- 住所
- 大手3-4-1
- 営業時間
- 見学自由