【生誕150年】「藤野先生」で有名な魯迅の師 藤野厳九郎の故郷を訪ねて / 参观因鲁迅《藤野先生》而闻名的藤野严九郎故乡
日本においても中国においても、同じように教科書に取り上げられる小説「藤野先生」。魯迅の師である藤野厳九郎は、福井県人にもあまり知られていませんが福井県あわら市出身であり、晩年を過ごしたのは坂井市三国町なのです。そして2024年7月1日には生誕150年、2025年8月11日には没後80年を迎えます。国を超えた師弟愛に思いを馳せながら、藤野先生の故郷を巡ってみましょう!
小说《藤野老师》在日本和中国都很有名。鲁迅的老师藤野严九郎出生于福井县芦原市。他在坂井市三国町度过了晚年。2024年7月1日将是他诞辰150周年,2025年8月11日将是他逝世80周年。一边思考超越国界的师生之爱,一边游览藤野老师的故乡吧!
- ライター:Tomo & Yasu
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魯迅の師、藤野厳九郎とは?
高校の国語の時間に「藤野先生」を読んだ人も多いと思います。僕も高校時代に読んだこの小説がとても印象的だったことを覚えています。
「藤野先生」は珍しく日本でも中国でも教科書に取り上げられる小説であり、特に中国では多くの人達が藤野先生のことを知っているという話も聞きます。
この記事にたどり着いた方の多くは魯迅や「藤野先生」のことを知っている人も多いとは思いますが、ここではこの2人の人生、関係を簡単にご紹介します。
■藤野厳九郎
・1874年7月1日、現 福井県あわら市下番 生まれ。
・藤野家は江戸時代初頭から続く医者であり、父 昇八郎は大阪 緒方洪庵の「適塾」で学ぶ(橋本左内の先輩)。
・愛知医学校(現 名古屋大学医学部)を卒業し、後に仙台医学専門学校(現 東北大学医学部)の教授となり、留学時代の魯迅を指導する。
・1915年に地元の福井に戻る。以降、故郷の隣町である坂井市三国町や、故郷のあわら市にて医者を営んだ。
・家族に対しても自分が藤野先生本人であることを秘すよう伝え、名乗り出ることは無かった。
・1945年8月11日、往診先で倒れ死去(享年71)。
■魯迅
出典:東北大学バーチャル背景集 / 利用について
・1881年9月25日、浙江省紹興市生まれ。本名 周 樹人。
・中国では大変有名な小説家、思想家。
・1904年 23歳頃に仙台医学専門学校(現 東北大学医学部)に留学し1年半在籍した。
・当時は中国は後進国と見なされ、学生達からも見下される中、解剖学であった藤野厳九郎からは大変親切で丁寧な指導を受けた。
・医学よりも文学に進むことを決め1906年に仙台医専を去る。藤野厳九郎から贈られた写真(裏に「惜別」の文字)を、部屋に貼り終生大切にした。
・1926年に発表した自伝的短編小説の中で「藤野先生」を記し、「師と仰ぐ人の中で、もっとも自分を感激させ、もっとも励ましてくれた一人」と評した。
・「藤野先生」を出版することで藤野厳九郎と連絡が取れることを期待したが叶わなかった。
・日中戦争の前年1936年に死去(享年55)。
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あわら市が公開しているこちらのアニメが分かり易いので、是非ご覧ください。
介绍根据藤野严九郎和鲁迅的故事改编的动画。还有中文字幕。
藤野厳九郎ゆかりの地マップ
次の項からは生誕地から菩提寺まで、順を追ってゆかりの地をご紹介します。ここではゆかりの地スポットをまとめて地図上にご紹介します。
出身地である「あわら市」と、晩年を過ごした「坂井市三国町」は隣接しており、えちぜん鉄道三国芦原線も通っているエリアなので、公共交通機関+徒歩orレンタサイクル(三国駅orあわら湯のまち駅)でも巡ることが出来ますよ。
※各項では直接的な藤野厳九郎ゆかりの地の他に、説明の中で紹介しているスポットも紹介しています。
在这里,我们将在地图上介绍与藤野严九郎有关的地方。
※各部分中,除了与藤野严九郎有关的地方外,还介绍了解说中提到的景点。
- 藤野厳九郎記念館
- 藤野厳九郎生誕之地
- 龍雲寺(大同野坂源三郎墓所)
- 龍翔小学校跡
- 平章小学校
- 福井中学校跡(明道館跡)
- 耳鼻咽喉科「藤野医院」辺り
- 晩年の旧宅辺り
- 晩年の診療所付近(あわら市中番)
- 藤野厳九郎が倒れた河辺橋(こうなべ橋)付近
- 福円寺(藤野厳九郎墓所)
- 藤野厳九郎碑(あわら市下番)
- 藤野厳九郎碑(福井市足羽山)
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生誕地 あわら市下番
えちぜん鉄道三国芦原線 本荘駅から徒歩17分(1.2km)の場所にある生家跡には「藤野厳九郎生誕之碑」があります。(※敷地内には立ち入らないようご注意願います。)
塀に隠れて分かり辛いですが、小さな赤いポストが目印です。
道路(芦原街道(県道 福井加賀線))を挟んだ向かいには、後ほどご紹介する厳九郎の菩提寺「福円寺」があります。車で訪れる際はこちらの駐車場をお借りすることが可能です(要事前連絡)。
生誕地のすぐ近くにある「あわら市下番区民会館」には「藤野厳九郎碑」があります。
1980年(昭和55年)3月19日、有志にて「藤野厳九郎先生顕彰会」が設立され、同年5月28日、生誕地近くの下番区民館前庭に、魯迅の息子である周海嬰氏揮毫の「藤野厳九郎碑」が建立されました。除幕式には、周海嬰氏夫妻、同氏の令息 周令飛氏、藤野家関係者等が多数参列しました。
碑文には以下のように刻まれています。
碑文
藤野厳九郎先生は明治7年7月1日坂井郡下番村(現在芦原町下番)に於て藤野家5代目医師升八郎とちくをの3男として生まれる。長じて愛知医学校に学びやがて明治34年仙台医学専門学校講師に迎えられついで教授に進む。明治37年周樹人(後の中国文豪魯迅先生)清国留学生として同校に入学し以後2ヵ年藤野先生と師弟の縁を結ぶ。後に魯迅は「藤野先生」という小品を書き自己の書斎には常に先生の写真を掲げ生涯敬仰した。先生は大正5年仙台を去って福井県へ帰りのち郷里に診療所を開き仁術を施し多くの人に崇められつつ昭和20年8月11日他界する。享年71歳。墓所は福円寺境内にある。因みに碑面の筆跡は魯迅先生の嗣子周海嬰氏の揮毫である。
昭和55年5月
芦原町
幼少期~青年期に通った塾、学校
この項では、幼少期~青年期を過ごした厳九郎の学び場についてご紹介します。
厳九郎は4,5歳の頃から父より漢文を習い、8,9歳から隣村である中番にある大同野坂源三郎の私塾に通い漢学等を習いました。源三郎は福井藩で松平春嶽公に仕えた旧福井藩士であり、明治になり中番で私塾を開きました。源三郎から厳九郎への手紙は今も藤野厳九郎記念館に残されています。
大同野坂源三郎の墓は厳九郎の生誕地に近い、あわら市の龍雲寺にあります。
■平章小学校(坂井市丸岡町)
平章小学校 (1930年)
出典:今昔マップ on the WEB (国土地理院地図を使用)
厳九郎は生家から約10kmという、かなり離れた場所にある丸岡町平章小学校に在籍していました。丸岡藩の藩校 平章館の流れを汲む小学校です。こちらの古地図は1930年のものですが、中央の「凸」が「現存12天守」の一つである丸岡城であり、そのすぐ北にある「文」が平章小学校です。現在も同じ場所にあります。厳九郎も平章小学校から丸岡城を見上げていたのでしょうね。
平章小学校のすぐ近くにある現存12天守の一つ丸岡城 (写真:ふくいドットコム)
坂井市龍翔館博物館 (画像:ふくいドットコム)
厳九郎は何故か並行して2つの小学校に在籍していました。1つは前述の平章小学校、そしてもう一つが坂井市三国町の龍翔小学校です。全国でも類を見ない五層八角形の木造建築であり、三国町のシンボルとして「こうもり傘の小学校」と呼ばれ、高台にあったためとても景色が良かったそうです。
1981年(昭和56年)9月に当時の外観を忠実に再現した「みくに龍翔館(現 坂井市龍翔博物館)」が三国町緑ヶ丘に建てられました。古くから重要な港町である三国町の歴史を知ることができる博物館であり大変おすすめなのですが…、実は藤野厳九郎が在籍していた頃に龍翔小学校があったのは別の場所です。
龍翔小学校があった三国町南本町4丁目の丘から
龍翔小学校は完成当初の明治12年~明治末期頃までは興ヶ岡地区(三国町南本町4丁目)に建っていました。
当時の建物は1914年(大正3年)に取り壊されましたが、現在この丘に続く階段に建てられている「上西区山車格納庫(三国祭に登場する山車を保管する場所の一つ)」は、龍翔小学校を模した形をしています。(上の写真にも少し写りこんでいますよ。)
龍翔小学校を模した上西区山車格納庫
なおこの龍翔小学校は明治期の「お雇い外国人」であるオランダ人 ジョージ・アルノルド・エッセルが設計したと言われています。
同じ坂井市三国町の三国サンセットビーチにある突堤「エッセル堤」もエッセルの設計によるものです。
このエッセルは、美術の教科書等でも目にする「だまし絵」で有名なマウリッツ・エッシャーの父なんですよ!驚きですね!
■福井中学校(福井県尋常中学校/現在の福井城付近)
福井城内にあった頃の福井中学校 (1909年)
出典:今昔マップ on the WEB (国土地理院地図を使用)
厳九郎は小学校を卒業後、福井県尋常中学校(福井中学校)に入学し1892年(明治25年)までの2年間通っています。当時の高等中学校は、地方における大学のような立ち位置だったそうです。福井中学校は幕末期に松平春嶽公が設立し橋本左内が教えていた福井藩校「明道館」が元であり、現在の福井県立藤島高等学校につながります。当時藤野厳九郎が在籍していた頃は、今の藤島高校(福井市文京2丁目)の場所とは違い、明道館のあった福井城内にありました。
- 龍雲寺(大同野坂源三郎墓所)
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郷里福井を出て、愛知→仙台→東京
福井を出てからの経歴を簡単に列記します。
■愛知時代
1892年(明治25年) 18歳
愛知医学校(現在の名古屋大学医学部)に入学。
1896年(明治29年) 22歳
愛知医学校を卒業し、同校の助手となる。
1900年(明治33年) 26歳
愛知医学校の教諭となる。休職し上京。
明治生命の保険医をしながら東京帝大で研究を続ける。
■仙台時代
1901年(明治34年) 27歳
仙台医専(現在の東北大学医学部)の嘱託講師となる。
1904年(明治37年) 30歳
教授昇進。
9月13日 周樹人(魯迅)と初対面。
1906年(明治39年) 32歳
周樹人(魯迅)離仙。
「惜別」と書いた写真を贈る。
1915年(大正4年) 41歳
退職。
■東京時代
1916年(大正5年) 42歳
東京神田和泉橋三井慈善病院耳鼻科に入局。
東京市神田区佐久間町3-21に住む。
1917年(大正6年) 43歳
郷里の福井県あわら市下番に帰る。
帰郷後、坂井市三国町にて耳鼻咽喉科 藤野医院を開業
1918年(大正7年)の初夏、厳九郎は三国町坂井港竪地区に耳鼻咽喉科を開業しました。
昭和56年発行「郷土の藤野厳九郎先生」によると、「当時の建物が現存しているか調査した」「場所は、往昔の女郎街松ケ下の思案橋から、京福電鉄(注:現在のえちぜん鉄道三国芦原線)三国港駅の方向に向かって進む」「改造はされているが、欅の大黒柱、古びた戸側、決め手となった石畳の流し(台所)、大きな右側の井戸等間違いない」「この建物は間口十米、奥行六十米」と書かれています。正にこの辺りの三国独特の「間口が狭く奥行きが長い造り」であり、この写真の通りから海側へ続く細長い建物だったようです。
厳九郎はイカの刺身が大好物で、家の向かいにあった魚屋でイカや魚を買い、冷蔵庫の代わりとして井戸に吊り下げていたそうです。
20年前頃には当時の建物が現存しており、石畳やイカを吊るしていた井戸も残っていたそうです。
※当該の場所に石碑等はなく、当時の面影は残っていません。
この場所での生活は意外と短く、約一年程度だったようです。
あわら市下番の生家である「恒宅医院」を継いでいた次兄が亡くなったため、再び生家に戻りました。
前出の「郷土の藤野厳九郎先生」によれば、「恒宅医院」時代の村人の思い出では「気難しい人で、特に機嫌が悪いと非常につきあいにくかった」「貧しい人からは診療代を採らず、盆払い、暮れ払いに持ってくるまで、いつまでも待ち督促はしなかった」そうです。
頑固ながらも「医は仁術」に徹していた人柄が感じられます。
- 思案橋(坂井市三国町)
- 三国港の街中の小路にある小さな橋。ここに流れる辰巳川は、福井藩三国湊と丸岡藩滝谷出村の境でした。出村にあった遊郭に「行くか、行く…
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晩年の住処、坂井市三国町宿
晩年を過ごした旧宅辺り(三国町宿3丁目の丘から)
1933年~1945年の晩年に過ごした旧宅は、坂井市三国町宿3丁目の「民宿なかじま」さんの裏辺りにあったそうです。この写真はすぐ近くの丘にある階段から撮影したものですが、とてもきれいな景色でした。きっと厳九郎もこの景色を見ていたことでしょう。(石碑等はありません。住宅地につき、訪れる際は周りのご迷惑にならないよう十分にお気をつけください。)
写真に見える海は、福井が誇る三国町の海水浴場「三国サンセットビーチ」であり、毎年8月11日には北陸最大級の花火大会「三国花火大会」が開催されます。奇遇にもこの8月11日は藤野厳九郎の命日に当たります。
亡くなる前日に倒れた場所
晩年は三国町宿の家から、生家近く(恩師である大同野坂源三郎の墓がある龍雲寺そば)にある、あわら市中番 柳川九郎兵衛宅を間借りした診療所「藤野医院」へ京福電鉄で通勤していました。この生活は亡くなるまでの14年間続きました。(京福電鉄は現在えちぜん鉄道三国芦原線として駅も存続しており、当時の厳九郎と同じ「三国港駅~本荘駅」を電車で辿ることが可能です。)
柳川氏の奥さんの思い出によると「二年間も中耳炎で通った子供から一銭も取らず、挙句その子の遠足の時にはお小遣いまであげていた」そうです。
1945年(昭和20年)、終戦の年、1月に長男 恒弥が軍医として広島陸軍病院で戦病死します。
同じ年の8月10日夕刻、疲れを見せていた厳九郎は中番の診療所を出た後、生家すぐ近くの親しい友人である土田円右ェ門氏宅に向かいましたが、県道三国金津線の「河辺橋(こうなべばし)」と呼ばれている辺りで倒れました。
藤野厳九郎が倒れた「河辺橋(こうなべばし)」と呼ばれる辺り
しばらくして村の人達によって土田円右ェ門宅に運ばれ、親戚や友人の医師達が治療にあたりましたが、夜に状態が急変し、近親者である藤野儀助氏等に看取られ、翌8月11日午前10時に永眠しました。享年71歳でした。
菩提寺 福円寺
「藤野厳九郎生誕之地」の向かいには、菩提寺である「福円寺」があります。
お寺に向かって左側から裏手に回ると藤野厳九郎の墓があります。
〇印が藤野厳九郎之墓(地理院地図を使用)
ここに藤野厳九郎先生が眠っています。僕もこの記事を書くにあたり、手を合わせて来ました。
道を挟んだ向かい側にある藤野厳九郎生誕之地の見学も合わせ、福円寺の駐車場を使わせてもらうことが出来ます(要事前連絡/行事がある際は不可)。
福円寺では命日である8月11日には「藤野厳九郎先生命日の集い 惜別忌」が開催されています。
(開催の有無等、詳しくは福円寺 facebookをご覧ください。)
- 福円寺(藤野厳九郎墓所)
- 藤野厳九郎(1874-1945)は魯迅の小説「藤野先生」で知られる、福井県あわら市出身の医師。中国近代文学の父と言われる魯迅は、日本留学時…
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福井市の足羽山にもある藤野厳九郎碑
あまり知られていませんが、厳九郎が拠点を置いていたあわら市や坂井市三国町から遠く離れた福井市街地の真ん中にある足羽山には藤野厳九郎碑があります。
あわら市、坂井市三国町の故郷エリアからはかなり離れた福井市に建っていますが、この石碑の建立には魯迅ととても関係の深い方々も関わっています。
建てられたのは1964年(昭和39年)、「惜別」の文字は北京博物館にある、藤野厳九郎が魯迅に贈った写真の裏に描いてある直筆の文字が用いられており、背面の碑文は、魯迅の愛弟子であり「藤野先生」を最初に翻訳した日本人の中国文学者 増田渉(ますだ わたる)によるものです。また土台の「藤野源九郎碑」の揮毫は、魯迅の教え子であり、二番目の妻である許広平(きょこうへい)によるものです。
この碑文のために設立された「藤野先生記念会」の発起人には、作家の貴司山治、中野重治、三好達治、水上勉、俳優の宇野重吉、中国文学者の増田渉、竹内好等が名前を連ねています。
碑文には以下のように刻まれています。
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明治三十七年周樹人
教授藤野厳九郎懇切に指導すること二年、周氏志をかえて仙台を去る。
先生深く周氏を惜しみ「惜別」の二字を署して小照を贈る。周氏は、後の中国文豪魯迅先生なり。
魯迅その小照を終生壁間に掲げて己れを督励し、小品「藤野先生」を草して旧師を偲んで曰く「先生は世に無名の人、己れには極めて偉大の人」と。
大正五年、藤野先生故郷福井県に隠れ、医を営んで農夫の友となり、昭和二十年八月十一日七十二年の生涯を了る。
有志相謀り、上海魯迅記念館所蔵の藤野先生小照背面の文字を採り、仙台医学専門学校教授時代の先生小照と共に刻して、茲に惜別の碑を建て、両先生不滅の結縁を記念す。
因に台面藤野厳九郎碑の文字は、魯迅夫人許広平女史に嘱してこれを誌す。
一九六四年 四月
藤野先生記念会
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碑のデザインと制作総合は地元福井出身の芸術家雨田光平によります。
雨田光平は福井市出身で東京芸術大学を卒業後、彫刻家として世界的に活躍しました。福井市の柴田神社にある柴田勝家像、福井駅東口にある岡田啓介像、松尾傳蔵像も雨田光平が手掛けたものです。
藤野厳九郎記念館
晩年を過ごした三国町宿の旧宅は、昭和59年7月に「藤野厳九郎記念館」としてあわら市文化会館横に移築され、更に平成23年にあわら温泉「湯のまち広場」に移築されました。記念館内の資料室に展示してある書籍、医療器具、書簡など多くの遺品はたいへん貴重なものです。
地元テレビ局の「FBC 福井放送公式チャンネル」にて公開されている動画をご紹介します。
藤野厳九郎を知る方々の言葉
実際に藤野厳九郎を知っている地元の人達の思い出話を収録した動画です。「地元民だけが知っている」貴重なエピソードばかりであり、藤野厳九郎の厳しくも温厚な人柄や思想などが語られている大変貴重なものです。中国語の字幕も付いていますので、日本と中国、両国の多くの人達に見て頂きたいと思います。
该视频包含了真正认识藤野严九郎的当地人的回忆。这些都是只有当地人才知道的珍贵轶事,因为讲述了藤野严九郎严格而温柔的性格而显得极其珍贵。还有中文字幕,希望日本和中国的很多人都能观看。
大阪大学で特別展「三人の藤野先生、その生涯と交流」(2024.4.25~6.22)
2024年4月24日~2024年6月22日、大阪大学総合学術博物館にて「大阪大学微生物病研究創立90年・藤野厳九郎生誕150年」を記念し、特別展「三人の藤野先生 その生涯」が開催されていました。
藤野厳九郎の父が学んだ緒方洪庵の「適塾」は、大村益次郎、橋本左内、福沢諭吉などの多くの偉人を輩出します。この適塾の流れは、いずれ大阪大学の設立につながっていく所縁があります。
令和6年度適塾特別展示/大阪大学総合学術博物館 第19回特別展
【大阪大学微生物病研究所創立90年・藤野厳九郎生誕150年】
三人の藤野先生、その生涯と交流 −升八郎と洪庵、厳九郎と魯迅、恒三郎と遼太郎−
「三人の藤野先生」とは?藤野厳九郎以外の二人を簡単にご説明します。
■父 藤野 升八郎 (ふじの しょうはちろう)
1822年生まれ。
1882年9月15日 没。
緒方洪庵の大阪 適塾にて蘭学を学ぶ。洪庵からの手紙や、後輩である橋本左内からの手紙も残る。福井藩から典医に招かれたが固辞し農民の診療に尽力した。
■甥 藤野 恒三郎 (ふじの つねざぶろう)
1907年1月28日 福井県あわら市生まれ。
1992年8月15日 没。
藤野升八郎の孫であり、藤野厳九郎の甥。大阪医科大学(現 大阪大学医学部)卒業。1950年に集団食中毒の原因である「腸炎ビブリオ」を発見。大阪大学微生物病研究所長(第4代)。
医学史研究、適塾の顕彰活動にも取り組み、適塾を通じ、歴史小説家 司馬遼太郎との親交を深めた。
藤野家に藤野厳九郎先生が生まれたことは偶然ではなく、藤野家という土壌が生んだ必然だったのかもしれませんね。
Column
藤野厳九郎の未発表公開写真発見!
2024年5月24日(金)の日刊県民福井(中日新聞系)には、「藤野厳九郎の未発表公開写真発見」「40代か、控えめな性格表れる」という一面記事が載りました。
撮影した時期は、仙台医専を退職後に郷里に帰り、あわら市の生家に身を寄せていた大正期のものと考えられるそうです。写真に写る親族等の後ろで柱に少し隠れ写る様子が、あらゆるところで語られている厳九郎の控えめな人柄を感じさせますね。
※リンク先に写真が掲載されています。
藤野厳九郎と魯迅が出会った東北大学(仙台市)には
魯迅の階段教室(旧仙台医学専門学校六号教室)
(画像:東北大学バーチャル背景集(利用にあたって))
魯迅と厳九郎が出会った東北大学。東北大学や東北大学 萩友会の公式サイトには、藤野厳九郎の写真や魯迅関連の写真資料が多数掲載されています。
また東北大学には「東北大学藤野先生記念奨励賞」という賞が設けられており、「東北大学の前身である仙台医学専門学校に在籍していた魯迅先生が発表した短編小説「藤野先生」のモデルである藤野厳九郎教授の偉業を記念して2005年度に創設され、本学に在籍する優秀な中国からの大学院留学生で今後飛躍的な活躍が期待される者が受賞の資格」だそうです。
福井出身の人物の名前を冠した賞があるというのは、我々福井県人としても身が引き締まり、励まされるような思いがしますね。
最後に
Column
中国の方々が好きな日本の桜
海外でも知られる日本の桜ですが、中国の方々が日本の桜を知っている理由の一つは「魯迅の小説である『藤野先生』に、『上野的桜花爛漫的時節、望去確也像緋紅的軽雲(上野の桜が満開のころは、眺めはいかにも紅の薄雲のよう)』という一節があるから」だそうです。中国において「藤野先生」が如何に知られ、記憶に残る作品なのか、ということが分かる逸話だと思います。
日本で桜を見る中国の方々も多いと思いますが、桜を見上げる時、魯迅と藤野先生の師弟愛を思い浮かべている方も多いのかもしれませんね。
今回の記事を書くに当たり、多くのゆかりの地を調べ、自分の足で巡ってみました。いずれも派手な観光地等ではないのですが、自分の中に「藤野厳九郎という人」が浮かび上がってくるような感じがしました。
2024年7月1日には生誕150年、2025年8月11日には没後80年を迎えます。これを機に、福井の人にも、日本・中国両国の多くの人にも、藤野先生と魯迅との物語を改めて知っていただき、福井に残る藤野先生ゆかりの地にも足を運んで頂けたら、と思います。