【祝!!新紙幣】紙幣の歴史を辿る~紙幣の透かしは福井の技法⁉あの坂本龍馬との関係も?
2024年にやってくるのは北陸新幹線 福井・敦賀延伸だけじゃない!20年ぶりの新紙幣刷新もやってきます!誰にでも身近な紙幣ですが、実は福井は「お札のふるさと」とも言える場所なのです!実は坂本龍馬との関係も…⁉紙幣マニアじゃなくてもこれを知ったら福井に行きたくなる⁉そんな興味深くも意外な「お札のふるさと福井ネタ集」を一挙ご紹介!!福井人もあまり知らないネタも多いので、福井人相手にも自慢できるかも⁉
新紙幣画像 出典:国立印刷局「新しい日本銀行券特設サイト」
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- ライター:Tomo & Yasu
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2024年7月3日 新紙幣登場!!
ついに2024年7月3日、20年ぶりの新紙幣が登場します!渋沢栄一の1万円札、津田梅子の5千円札、北里柴三郎の千円札の3種類!
新紙幣(引用元:国立印刷局「新しい日本銀行券特設サイト」)
肖像画に選ばれたそれぞれの偉人としての興味深さもさることながら、なんといっても「紙幣そのもの」が楽しみですね。紙幣は「お金」という価値あるもの自体であることはもちろん、日本が誇る最高の技術が詰め込まれた芸術品でもあります。技巧を凝らしたデザイン、透かしや印刷等の偽札防止技術の数々!(僕はビッ〇リマン世代なので「ホログラム」が楽しみで仕方がありません!)
今回は「お札」のベースである「紙」と、それに施された偽札防止の「透かし」に深く関わる、福井県が誇る伝統工芸の一つ「越前和紙」の歴史を絡めながら、「福井と紙幣」の関係についてご紹介していきたいと思います。
日本初の全国通用紙幣「太政官札(だじょうかんさつ)」
まずは日本の政府が歴史上最初に発行した、全国に通用する紙幣を振り返ってみましょう。こちらは1868年(明治元年)に発行された「太政官札(だじょうかんさつ)」です。
(引用元:福井市毛矢 三岡八郎(由利公正)像 解説文)
この紙幣「太政官札」は、明治政府の財政担当となった福井藩士 三岡八郎(由利公正)が推し進め発行されたものです。
明治維新を支えたとても重要な紙幣であり、明治維新前後の渋沢栄一を描いた2021年 NHK大河ドラマ「青天を衝け」においても、何度も「太政官札」の名前が登場していましたね。
(太政官札は「偽札」が多数出てきたことに苦しめられたために一旦役目を終えますが、なんと当時財政難であった福岡藩による「太政官札贋造(だじょうかんさつがんぞう)事件」という事件も発生しました。この事件を重く見た新政府により福岡藩は厳罰に処せられ、他藩より先に廃藩となったそうです…。)
「え?日本初の全国通用紙幣は明治時代?意外と新しいんだな…」と思われる方も多いでしょう。「硬貨」つまり「コイン」はかなり古く、日本で最初の流通貨幣と言われる「和同開珎」は708年に登場しています。そこから全国通用紙幣の登場までの間には実に「1,160年」もの時間が空いているのです。
それまで紙幣は無かったのでしょうか?
「日本全国で通用する紙幣」として初のものは「太政官札」ですが、全国のいくつかの藩において紙幣は既に発行されていました。その中でも「日本最初期の藩札」であり、「現存する最古の藩札」でもあるのが「福井藩札」です。
福井藩札「百もんめ札」
(画像提供:福井市立郷土歴史博物館)
福井藩が初めて藩札を発行したのは1661年(寛文元年)のことです。1661年とはどういう年かというと、日本では将軍徳川秀忠の時代であり、水戸黄門の「水戸光圀公」が水戸藩主になった頃です。また、世界に目を向けると、奇遇にもスウェーデンのストックホルム銀行(スウェーデン中央銀行の前身)が世界で最初の「銀行券(紙幣)」を発行した年でもあるそうです。
※世界で最初の紙幣は997年頃に中国で登場した「交子」と言われています。
※藩札以外も含めた「日本最古の紙幣」は、1600年頃に伊勢国(三重県)山田の商人によって使用された「山田羽書(やまだはがき)」と言われています。
「太政官札」と坂本龍馬の関係?
前項にて説明した日本初の全国通用紙幣「太政官札」。この太政官札の発行までの流れには、福井とあの幕末の志士 坂本龍馬が関わってきます。
「え?紙幣と坂本龍馬??」と不思議に思われる方も少なくないでしょう。無理もありません。龍馬の業績の中で「紙幣」のイメージを持つ人はあまりいないと思います。順を追って説明します。
坂本龍馬と三岡八郎(由利公正)
龍馬は亡くなる直前、福井藩に赴き「三岡八郎(由利公正)」と会っています。三岡八郎は、幕末の福井藩において、窮する財政状況を一気に改善した人物でした。龍馬は「新政府の財政担当には三岡しかいない」と考えていたとも言われており、近年新たに発見された複数の「最後の手紙」には、福井藩に対し三岡の出仕を強く求める内容が書かれています(詳しくは「福井×坂本龍馬」の記事をどうぞ)。
龍馬はその約一週間後に京都にて暗殺され亡くなってしまいますが、三岡はその後、生前の龍馬の願いどおり、新政府の財政担当として参加することとなります。そこで三岡が早々に着手したのが、日本で初となる全国通用紙幣「太政官札」の発行だったのです。
つまり坂本龍馬が直接的に関与した訳ではなく、三岡八郎(由利公正)という福井の偉人が新政府へ登用されるきっかけから、太政官札発行への流れにつながっているという可能性もある訳です。
こちらの高知県立坂本龍馬記念館のYoutube動画(7分半)が参考になりますのでぜひご覧ください。
Column
坂本龍馬は意外にも福井との関係が深い!
あまり知られていませんが、実は坂本龍馬は福井との関係はとても深く、本項で紹介した「太政官札と坂本龍馬」もその一部になります。暗殺直前に訪れたのが福井であったり、「最後の手紙」の中身が福井藩士 三岡八郎(由利公正)であったり。有名な龍馬の写真の中にも「撮影場所は福井説」があります。詳しくはBlog記事をご覧ください!
「太政官札」の紙幣用紙は福井で作られていた!
前述の「日本で初の全国通用紙幣 太政官札」では、福井の「越前和紙」が採用され、現在の越前市「越前和紙の里」である「五箇地区(不老、大滝、岩本、新在家、定友の5つの村)」に抄造が命じられました。
五箇の街並み(写真:越前市観光協会)
全国の数多くの紙漉き村の中から「五箇」が選ばれた理由は、
1.上質の紙を短期間で大量に漉く力を持っていた。
2.たくさんの漉き屋が地域に集中しているため、紙漉の秘密が漏れるのを防ぎやすかった。
3.紙幣発行の発案者が福井藩の三岡八郎(由利公正)であり五箇の紙漉きの力量を良く知っていた。
と言われています。
(参考:岡本小学校編『越前和紙の里』 )
原材料の楮 (写真:越前市観光協会)
必要な数があまりに大量であったため、原材料である楮(こうぞ)は丹後・石見・但馬・長門・周防・信濃・上野・美濃・紀伊から、また雁皮(がんぴ)は、伊賀・伊勢・若狭から調達されたそうです。太政官札の用紙を提供出来た実績から、越前和紙の和紙産地としての名声は更に全国に広まりました。
(参考:福井県史「越前和紙産地の発展」)
太政官札の紙幣用紙の提供が終わった後も越前和紙の里には紙幣の用紙の抄造が続きます。1940年(昭和15年)には大蔵省印刷局から依頼され中国の紙幣(中国聯合準備銀行券)の用紙を抄造することとなりました。1942年(昭和42年)には岡本製紙施設組合が設立され、「五箇」の岩本に共同工場「抄紙部」が建設されました。終戦後の1946年(昭和21年)から新紙幣の用紙を抄造しましたが、1950年(昭和25年)末には日銀券用紙の抄造はすべて印刷局直轄工場に移り、この地での紙幣の抄造は終わりました。
(参考:紙幣工場「抄紙部」跡地 碑文)
越前市にある「越前和紙の里」には、今も紙幣用紙抄造のなごりが残っています。
・紙幣工場「抄紙部」跡地:碑文のみ
・やなせ和紙:「抄紙部」工場建物を移築
・綴の家 :欠陥のためか印刷には回せなかった原紙「損紙」(印刷前の10円札の”透かし”だけが入った紙であり大変貴重!)を展示
「越前和紙の神様」は東京都王子の「印刷局」に分祀された!
越前和紙の神様「川上御前」
「太政官札」の項にて、「紙幣用紙に採用された越前和紙」と書きましたが、越前和紙の歴史について少しご紹介しましょう。
越前和紙の歴史は、1500年昔、現在の福井県越前市今立地区の五箇地区を流れる岡本川の川上に現れた女性が、農作が難しい五箇地区に紙漉きの技術を伝えたという伝説から始まります。自らのことを「川上から来た者」とだけ言い残し去っていったこの女性を、五箇地区では「川上御前」と呼び、岡太神社(おかもとじんじゃ)を建て、和紙の神様として祀ってきました。それ以来、この五箇地区は紙漉きの業を伝えています。
紙幣を作っていた東京王子の印刷局抄紙部では、越前和紙と紙幣との深いつながりから、大正12年に「川上御前」が分祀されました。(この「印刷局抄紙部」は、現在の「お札と切手の博物館」辺りとなります。)
※国内に存在する他の「紙の神」としては、日本書紀に登場する「天日鷲神(あめのひわしのかみ)」がいます。山梨県三郷町にある神明宮(八乙女神明宮)はこちらの天日鷲神を祀っています。
Column
「川上御前」はマッカーサーの耳にも届いていた?
「大蔵省印刷局百年史 第2巻 (昭和47年) 第5章 事業の進展と紙業の開発」には、川上御前についての興味深い記述があります。
・「大正十二年七月、越前岡本村との交流もあったところから、岡本神社(注釈:岡太神社・大瀧神社・後述)の祭神である紙祖川上御前を合祀したいという議が起こり、御分姿を勧請することに決した。」
・「昭和二十一、二年の頃、誰からともなく工場職員の間から祭典挙行の意見が持ち上がった。」
・「ところが、突然本局から、「そのような行事まかりならぬ。」の指示が下だった。」
・「いうまでもなくマッカーサー指令によるものであった。」
越前和紙の神様を祀る「岡太神社・大瀧神社」は、紙幣関係者も訪れる和紙の聖地!
岡太神社・大瀧神社
越前和紙の里にあり、「川上御前」を祀る「岡太神社・大瀧神社(おかもとじんじゃ・おおたきじんじゃ)」。製紙業界からも広く知られる神社であり、製紙関係者や紙幣関係者の方々も多く訪れているそうです。
こちらの神社は紙幣ファン、和紙ファンだけではなく、全ての神社仏閣ファンに超おすすめスポットです。
見どころは「日本一番複雑な屋根」として重要文化財に認められるほどの超絶技巧の「屋根」! 以前、他県TV会社の撮影隊と共に門をくぐった際、カメラマンの方が「なんだこれは…」と呟かれていました。この神社のインパクトの大きさを物語っていますね。
なおこちらの岡太神社・大瀧神社は719年創建と伝わり、なんと1300余年の歴史があります。1300年以上続くと言われる「紙と神の祭り」が毎年5月3日~5日に執り行われます。祭礼では「奥の院」から神輿が渡御し、紙能舞や紙神楽等の伝統芸能が奉納されます。期間中は和紙の里通りで様々なイベントも開催されるので大変おすすめです。
※岡太神社・大瀧神社は「奥の院」にある「岡太神社」と「大瀧神社」の2神社の本殿と拝殿を兼ねていることから、2つの神社名が併記されます。
- 岡太神社・大瀧神社
- 紙の神様「川上御前」を祀る神社。
重要文化財に認定されている「日本一複雑な屋根」は必見!
- 詳細を見る
Column
「岡太神社・大瀧神社」は全国の神社ファンに大人気!
「神々が見える神社100選」(新潮社 芸術新潮編集部編)という本では、「岡太神社・大瀧神社」はなんと表紙を飾っています。同社の紹介文では「10万ともいわれる日本全国の神社から、選りすぐった名社を紹介」とあり、錚々たる神社を抑えて「表紙」に登場しているということが分かります(裏表紙は出雲大社!)。
岡太神社・大瀧神社は、他にも「NHK 夢の美術館 世界の名建築100選」にも選出されているんですよ!(「大瀧神社」名で選出)
お札の「透かし」は越前和紙の技法の発展形!
太政官札が発行された後、明治8年には東京王子に大蔵省印刷局抄紙部が創設されました(現在の「お札と切手の博物館」辺り)。抄紙部の目的は日本固有の材料で精密な透かし入りの紙幣用紙を作ることが目的でした。紙幣用紙として白羽の矢が立ったのは、古来製紙業者が多く、江戸時代の藩札や明治初期の太政官札など様々な紙幣を手掛けていた越前和紙でした。そして越前和紙の職人が招聘されます。その職人達が越前和紙の透かし技術を発展させ、白透かしと黒透かしを組み合わせた更に高度な技法を完成させました。日本の紙幣製造技術は世界最高の技術として飛躍的に進化したのです。現在のお札に入っている透かしも、越前和紙の歴史からつながるこの技法なんですよ。
なお、この偽札防止の透かし技術は印刷局では「秘訣法」と呼ばれ「門外不出の秘密」とされています。「すき入紙製造取締法」により、紙幣製造以外に用いると罪になるんですよ!(用いる場合は財務大臣の許可が必要)
【黒透かし、白透かしの原理】
国立印刷局の工芸官の方々による、この透かし技術を維持するための研鑽の中で作成された透かし作品の企画展が、2023年末に越前和紙の里の「紙の文化博物館」にて開催されました。企画展のチラシ表面に工芸官による透かし作品が使われています。
凄いですね!! え?これはモノクロ写真ですって?違います!これは「紙の透かし(の写真)」なのです!!
僕も企画展で実物を見た時は、正に衝撃的!心底感動しました。テーマに「神技」とありますが、まさしく世界最高峰の技術…。
こちらの企画展は、国立印刷局と「紙幣のふるさと」とも言える越前和紙の里とのゆかりから開催されたものだそうですが、新紙幣が登場することで、今後も同様な展示が開催されるでしょう。その際はぜひ皆さんも見学して感動して頂きたいと思います。
Column
国立印刷局「すかしの技と美 工芸官作品展」特集サイト
「透かしの展示会は見たいけど、次はいつどこで開催されるんだろう…」という方に朗報!国立印刷局 お札と切手の博物館「令和5年度 秋の特集展 すかしの技と美 工芸官作品展」特集サイトが開設されています!透かしについての説明、透かしを採用した歴代の紙幣、現在の工芸官による作品が紹介されていますよ。
「お札のふるさと」である「越前和紙の里」に行ってみよう!
これまでご紹介してきた「越前和紙の里」にあるスポットの数々を以下のマップにまとめてみました。
歩いて回ることの出来る範囲に集中していますよ。
先に紹介したスポットの他に、紙すき体験やお土産品を購入することが出来る「パピルス館」、和紙の歴史等を知ることが出来る「紙の文化博物館」、伝統工芸士の技を実際に見学できる「卯立の工芸館」、越前和紙の里の街並みを一望出来る「秋葉山展望台」もぜひ組み合わせて巡って頂きたいと思います。
秋葉山展望台からの景色は「美しい日本の歴史的風土100選」にも選ばれており、大変おすすめです!僕はこの景色を初めて見た時は、あまりの美しさに「ウィーンの丘から見えた街並みの日本版だ!」と思ったくらいの衝撃、感動がありました。
また五箇の街を歩くだけでも「1500年前から続いている、今も生きている歴史の中を歩いているんだ…!」という空気を感じることが出来ると思います。
- 越前和紙の里 パピルス館
- 越前和紙の里 紙の文化博物館
- 越前和紙の里 卯立の工芸館
- 紙幣工場「抄紙部」跡地
- 綴の家 (吉田家住宅/旧東小林家住宅)
- やなせ和紙
- 岡太神社・大瀧神社
- 秋葉山展望台
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- 越前和紙の里 パピルス館
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- 越前和紙の里 紙の文化博物館
- 越前和紙の伝説や歴史をはじめ、その高い技術から奉書をはじめ日本美術にかかせない紙やお札づくりを支えた原点を紹介しています。一階で…
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- 越前和紙の里 卯立の工芸館
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- やなせ和紙
- やなせ和紙の製紙所は、かつて紙幣用紙を抄造していた「抄紙部」の工場建物を移築したものです。
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- 岡太神社・大瀧神社
- 国の重要文化財の指定を受けている、日本でも珍しい「紙の神様」を祀っている神社です。今から千五百年ほど前、継体天皇が越前におられ男…
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- 紙幣工場「抄紙部」跡地
- 越前和紙の里は「お札のふるさと」でもあります。1940年(昭和15年)には、越前製紙工業組合が大蔵省印刷局から依頼され、紙幣用紙を抄造し…
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- 綴の家 (吉田家住宅/旧東小林家住宅)
- 越前和紙産地「五箇」にある、和紙の商いで栄えた小林家の分家の一つである東小林家が建てた住宅であり、大正初期に製紙業 吉田家の住宅…
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- 秋葉山展望台
- 越前和紙の里「五箇地域」は、越前市で1500年前から和紙の産地である「大滝町、岩本町、不老町(おいず)、定友町、新在家町」の地区。国指…
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Column
越前和紙の里に行くには「越前市500円定額タクシー」で!(2024年度版)
東京や大阪等の「車社会ではないエリア」から「越前和紙の里」への観光を検討されている皆様に朗報!
なんと特定のスポット間を片道500円で乗ることが出来る「定額タクシー券」が越前市各地の施設にて販売されています。新幹線 越前たけふ駅、武生駅(旧JR北陸本線/現ハピラインふくい)からでもご利用(乗車)が出来ますよ!
どれくらいお得かというと、「1乗車3000円前後」程度する距離でも「500円」で乗れるくらい超お得です!もちろん、ご家族・友人の複数名で乗っても「500円」ですから、迷いなく気軽に移動、観光することが出来ますよ。
東京にある「国立印刷局 東京工場」や「お札と切手の博物館」にも行ってみよう!
ここまで読み進めてきた皆さんは、きっと紙幣や越前和紙にも興味が強くなり、うずうずしている頃だと思います!今すぐ福井に行くにも、予定を立てる必要もあるでしょう。福井に来る前に、紙幣に関する情報を予習出来る、うってつけの場所がありますよ!
東京の王寺駅周辺は、実際に紙幣を作っていた「印刷局抄紙部」が作られた場所であり、現在は「国立印刷局 東京工場」や「お札と切手の博物館」があり、どちらも見学可能です。(王子製紙設立の地でもあったことから「紙の博物館」もあります。)
紙幣の歴史や技術の数々、越前和紙に関する記述もたくさん!「へ~!お札ってこんなに歴史や技術が詰まっていたんだ!」と感動すること間違いなし!福井の「越前和紙の里」に先に行った方も、旅行から帰ってからこちらの展示を見ると、新たな感動があると思います。これから福井へ旅行に行く方にも、福井の旅行から帰ってきた方にも、超おすすめなスポットです!
(国立印刷局は東京工場の他にも、小田原工場、静岡工場、彦根工場が見学可能ですよ。また「オンライン工場見学」も可能です!)
最後に
Column
どの時代にも登場する「越前和紙」!あの「ベルサイユ条約」も!
日本三大和紙の一つ、越前和紙。1500年の歴史を誇るだけあってあらゆる時代に登場します。越前和紙の里にある「三田村家(有限会社越前製紙)」には、信長、秀吉、家康それぞれの「越前和紙の流通を守る(安堵する)ことを示す印」が残っています。明智光秀の物語である「明智軍記」にも光秀が信長に仕える際に「大滝(「五箇」の一つ)の髪を結わえる紙を献上した」という記載が出てきます。
近代では、本項で紹介した紙幣はもちろん、ベルサイユ条約にも越前和紙が使われており、横山大観も越前和紙を愛用していました。皆さんがよく知っている年末の清水寺「今年の漢字」にも越前和紙が使われていたんですよ!
新紙幣を初めて手に取った際には「ここに今も生きる越前和紙の技術があるのかぁ…」と、この記事を思い出して頂けると幸いです。それではまた!