福井藩のお雇い外国人教師だったグリフィスの功績を称える、福井市グリフィス記念館について徹底解説!
明治維新という未曽有の革命によって、越前福井藩という二世紀半続いたひとつの公国が終焉を迎えたその時、福井の地でそれを見届けたひとりの米国人がいました。
その人、ウィリアムE.グリフィスのまなざしから、激動の時代と、それからの福井が歩んだ歳月が新たな彩りをもって浮かび上がります。
「福井市グリフィス記念館」は、明治初期に福井藩の教師として活躍した米国人ウィリアム・エリオット・グリフィス(1843~1928年)の邸宅だった洋風住宅の外観を福井市が考証・復元した施設です(平成27年10月にオープン)
福井を愛し福井に愛されたひとりの異邦人の回顧を通じて、市の来歴に思いをめぐらし語り合ってみませんか。
ウィリアム・エリオット・グリフィスについて

ウィリアム E. グリフィス 福井市立郷土歴史博物館蔵
19世紀、欧米諸国による国際秩序の再編という危機の中、安全保障と産業の基礎となる「理化学」を修めた人材の養成は日本国の急務でした。福井藩は米国に天才留学生日下部太郎(くさかべたろう)を派遣しましたが、無理な学業がたたった日下部は首席での大学卒業を目前にして現地で亡くなります。その年の末、福井の藩校で理化学の基礎を少年たちに教えるべく、藩に採用されて来日した牧師志望の神学生こそ、語学講師として日下部と出会い友人となり、その葬儀にも参列していたW.E.グリフィスでした。
生来の真面目な性格と、新日本の発展に寄与したいという使命感から、契約上の科目だけでなく、もてる幅広い知識・教養を学校の内外で精力的に伝えようとするグリフィスは、藩士の深い信頼を得ました。由利公正たちとの交友から、グリフィスは明治維新という革命を高く評価し、日本という国には本格的研究に値する歴史・文化があると確信し、足で、馬で、舟で、あらゆる事物への関心を露わに越前の地をその目で見てまわりました。ただでさえ、かつての日本の美しい風景と、細やかで開けっぴろげな人情は、その頃来日した多くの西洋人同様にグリフィスを魅了してやまないものでした。
廃藩はグリフィスの滞日中もっとも印象的な事件であり、自分がまさに歴史的な瞬間に身をおいているという実感を彼に与えた事は、その主著「ミカドズ・エンパイア」に鮮やかに描かれています。グリフィスは封建制の清算と中央集権体制の成立をポジティヴにとらえましたが、それは彼が1年足らずで任地を去る主因ともなりました。しかしその一度きりの春夏秋冬の間に、彼は確かに福井という地の科学教育の礎を築いたという事実が、当館の開設にまでつながる記憶の原点となっています。
東京大学の前身となる学校での二年半の教職の後、帰国してからのグリフィスはいわゆる二足の草鞋を履く事になります。牧師として、作家として。それは後年、本人が実り多き人生として回顧するに足るものでした。還暦を迎えてからそのうちの一足を脱いで、文筆に専念するのですが、残された作品は伝記、歴史物語、フェアリーテイルなど多岐にわたります。そこでとりあげられた題材にはM.C.ペリー、T.ハリス、G.フルベッキ(グリフィスを日本に招いた宣教師)たちの伝記、あるいは日本人にはおなじみの昔話など、27歳の日に海を越えて赴任した国に関わる事柄が多く、その地で送った数年間が、その後の長い創作活動の絶えざる源泉となったといえます。
その日々は老いていよいよ美しく彼の記憶の中にありました。明治という時代を代表するジャパノロジストとして名声を確立したグリフィスの人生の最後に、昭和と改元されて間もない日本を再び訪れる機会が待っています。追憶の彼方にあった国がその後たどった半世紀間の、自らが種を蒔いた近代国家としての発展の、成果を確認する事になる文字通り皇国全国を巡る大旅行。その時の大歓迎が、当館の開館に至る福井とグリフィスのその後の一世紀の、新たな始まりでした。

「グリフィスと生徒の写真」福井市立郷土歴史博物館蔵
もっと詳しく
グリフィス年譜
| 1843 | 9月17日、米国ペンシルヴァ二ア州フィラデルフィアで出生。 |
| 1850 | サスケハナ号(後にペリー艦隊旗艦として来日)の進水式を見る。 |
| 1859 | 横浜開港(グリフィスが入国し、また帰国する港)。 この頃家計が苦しかったグリフィスは、高校を中退して宝石職人の下で働く。 |
| 1860 | フィラデルフィアで遣米日本使節団を見る。 |
| 1861 | 北米の内戦はじまる(南北戦争。グリフィスも二度、志願入隊)。 |
| 1865 | ニュージャージー州ニューブランズウィックのラトガース大学(オランダ系改革派教会と提携関係。当時既に科学コースもあった)に入学。在学中よりグラマースクール(併設の中等教育機関)の講師を務め、そこの生徒となった横井小楠のふたりの甥や、福井藩士日下部太郎たち日本人留学生と出会う。 |
| 1868 | 王政復古。 |
| 1869 | 大学卒業。ニューブランズウィックの神学校に進む。 |
| 1870 | 4月、日下部太郎の葬儀に参列。 |
| 松平春嶽から藩校教師の斡旋を頼まれたG.フルベッキ(アメリカの改革派教会から派遣されたオランダ系の宣教師)、本国の教会伝道局に依頼。ラトガース大学教授会はグリフィスを推薦。本人も最終的に受諾。 | |
| 12月29日、横浜上陸。この時、27歳。 | |
| 1871 | 3月4日、福井入り。以後、旧酒井外記邸(現・福井市中央3丁目。柴田神社向かい辺り)に暮らし、藩校明新館(橋本左内も教えた明道館の後身。当時、福井城本丸内)に通う。 |
| 8月29日、廃藩置県。 | |
| 9月25日、新居(当館のモデル)に引っ越し。 | |
| 12月、勝安房(海舟)の依頼でグリフィスが教師として紹介した親友E.W.クラークが静岡に赴任。 | |
| 1872 | 1月22日、福井の人々と別れ、東京へ。 以後、南校(在職中、開成学校に改組。東京大学の前身)で教師を2年半務める。 姉マギーも来日し、翌年から東京女学校で教える。 |
| 1873 | グリフィスが福井で住んだ異人館が焼失。 |
| 1874 | 7月18日、姉と共に横浜を出港し、帰国。 |
| 1875 | ニューヨークのユニオン神学校に入学。 |
| 1876 | |
| 代表作"The Mikado's Empire(皇国)"出版。 | |
| 1877 | 神学校卒業。牧師としてニューヨーク州スケネクタディに赴任。 |
| 1879 | キャサリン・ライラ・スタントンと結婚。 |
| 1883 | 長女リリアン生まれる。4年後に長男スタントン(外交官となる)、その5年後に次男ジョン・エリオット生まれる。 |
| 1886 | ボストンのショーマット組合教会の牧師となる。 |
| 1893 | ニューヨーク州イサカの組合教会の牧師となる。 |
| 1898 | 夫人と死別。 |
| 1900 | サラ・フランシス・キングと再婚。 |
| 1903 | 牧師の仕事を引退。以後、文筆業に専念。 |
| 1908 | 勲四等旭日章を受ける。 |
| 1915 | "The Mikado(ミカド)"出版。 |
| 1926 | 12月、サラ夫人と共に日本再訪。 勲三等旭日章を受ける |
| 1927 | 4月25日~29日、福井に滞在。6月、帰国。 |
| 1928 | 2月5日、フロリダ州ウィンターパークで死去。享年84歳。 |
| 1929 | サラ夫人が福井市に日時計を寄贈(1934 設置)。 |
| 1936 | 残っていた異人館も焼失。 |
| 1975 | 福井青年会議所から、日下部らが眠るニューブランズウィックの共同墓地へ視察派遣。 |
| 1976 | 日下部太郎の夭折を悼む堕涙碑、福井市立図書館横に建立(現在は当館敷地に移設)。 |
| 1977 | 訪米した大武幸夫福井市長、荒廃した墓地の修復を願いニューブランズウィック市に寄附。 |
| 1981 | 福井大学とラトガース大学、提携。 |
| 1982 | 福井市とニューブランズウィック市、姉妹都市提携。 |
| 2015 | 福井市グリフィス記念館、開館。 |
日付は全てグレゴリウス暦です。
展示と建物
展示室のご案内


肖像写真が並ぶ部屋。グリフィスをめぐる様々な人のつながりが見えてきます。
頻繁な散策で出会った美しい風景、印象的なエピソード。それを生き生きと伝える日記や手紙からイメージした"水彩画"・"絵日記"で、色鮮やかに明治の福井が甦ります。

グリフィスが教鞭をとった明新館での授業や出版事業などの功績をパネルや実物の展示、タッチモニターで紹介していまグリフィスの執務室をイメージした空間。グリフィスが由利公正に宛てた書状や家族への手紙(複製)などを展示しています。

グリフィスの写真や著作物を展示しています。亡くなる前年、福井をはじめ日本全国から大陸にまで及んだ精力的な講演旅行について。また、グリフィスと日下部太郎との出会いがきっかけとなったニューブランズウィック市と福井市との交流も紹介しています。
建物について
「異人館」の外観復元
福井藩がグリフィスたち外国人教師の居住用に建てた鮮やかなライトグリーンの家屋は、デザインにおいても明治初年という時代を映しています。当時の横浜の古写真には、ベランダやポーチと海鼠壁(なまこかべ。瓦の目地に漆喰を盛った外壁)を組み合わせた、和洋の建築技法・意匠の混然する建物が写っています。その外観は、19世紀なかばの急速な西洋文化流入の中で、石・煉瓦造の知識をまだ十分持たない日本の職人が、持てる技術と溢れる創意によって生み出した工夫に満ちています。もう少し年代が進むと、本来の西洋建築の様式に則った「洋館」が主流となるため、失われた日本各地の様々な独創的「擬・洋風」建築物の再建は稀でした。そのため維新前後にしか建てられなかった「ベランダ海鼠壁」もまた、全国的に幻の建築といえます。
武家屋敷に仮住まいしていたグリフィスが、「ベランダ海鼠壁」の新居に移ってから暮らした期間は4か月ほどですが、それは幼い生徒たちが何人も同居するにぎやかな家でした。家屋はグリフィスが福井を去って2年後に焼失しましたが、隣接して建っていた同じデザインの家が、昭和11年にやはり火災で失われるまで、かつての「異人館」として残っていました。
当館は、残された資料から「異人館」の外観を考証・復元したものです。全体に均整のとれたプロポーションと、抑制された表現に宿る美意識が特徴的な造形です。また市民の皆様から寄贈された福井の誇る石材「笏谷石(しゃくだにいし)」を建材として使用しています。屋内では、仕掛けのある肖像写真の部屋などで、グリフィスと福井の関係を中心とした展示を行っております。福井の地で復活した、明治維新の時代を象徴する姿の建物で、世界の大きな変わり目とその後の日々を、果敢に懸命に生きた人々の思いにふれることができます。
日本で初めての公のクリスマスパーティー

当館の開館に際し、グリフィスの記述を元に描かれた絵(林ゆかりさん:画 https://nijimi.com/)
1871年、グリフィス家のクリスマス
牧師として長い人生を送ることになるグリフィスは、日本には宣教師ではなく教師として赴任し、公に布教活動を行うことはありませんでした。いわゆる南蛮文化を日本に伝えた宣教師たちが追放されて以来数世紀間、幕府の命令で日本人のキリスト教信仰は禁じられ、グリフィスが福井で暮らした明治四(1871)年においても未だキリシタン禁制の高札が日本中に掲げられていました。クリスマスもキリストの降臨を祝う行事である以上、宗教的なミサとはいえないホームパーティーであっても日本人が公に参加することはできないはずでした。長崎出島のオランダ人たちによるパーティーも、冬至のお祝いを装って開かれることで日本人通詞たちが参加していたようです。
政府が高札の撤去を命じたのは明治六(1873)年二月です。翌七年には東京築地の外国人居留地内の女学校において、日本人キリスト教徒がクリスマス・パーティーを開いた記録が残っています。ところが、グリフィスが明治四年十一月(1871年12月)に故郷の家族に宛てて書いた手紙には、彼が福井の自宅で生徒たちと一緒に「愉快で斬新なクリスマス」を楽しんだことが生き生きとつづられています。
当時グリフィスは生徒数名と同居していて、日曜日には共に聖書を読んでいました。12月24日(日曜日)、聖書の会の後グリフィスは生徒たちと散歩に出た際、米国のクリスマスの話をしました。帰宅してからも生徒たちはクリスマスに興味津々で、グリフィスは彼らに靴下の代わりに足袋(たび)を吊るすように言いました。「少年たちは松と栂(つが)を切り、みかん、張り子のおもちゃ、いろんな食べ物、つがいの雉(きじ)、各自の新しい足袋、紐(ひも)などを持ってきて、食堂の壁や暖炉をいろんな色の装飾品、緑の枝などで飾り、足袋を吊るした」(山下英一訳『グリフィス福井書簡』)。足袋は都合9足になりました(生徒五名、使用人のサヘイ、その妻子、若い使用人ゴンジ)。彼らが寝た後で、グリフィスは足袋の中に「角砂糖、ドロップ、干しぶどう、筆記用紙、鉛筆、写真、ペン、ジャムの小瓶、小物、小銭」などを入れました。翌朝みんなは大喜びです。
当然祝日ではありませんから、その日も学校の授業がありました。グリフィスは生徒から学校を休むよう言われましたが登校しました。でもお昼からは休みをとり、学校の生徒や職員を自宅に招きました。こうして日本人60~70名が参加するパーティーが開かれました。
「少年たちはゲームなどを楽しみ、年長者は談笑したり、立体鏡写真をのぞいたりして楽しんだ。みんな幸せそうだった」。グリフィスはチョコ、コーヒー、ビスケット、和菓子などをふんだんに振舞いました。グリフィスがみんなのカップにコーヒーを注ぐのを見て、生徒たちが手伝いました。参加者はチョコもコーヒーも初体験でした。外から中をうかがっていた野次馬も引っ張り込まれて、コーヒーを振舞われたようです。「キリストの名を冒瀆し違法とする政府のKosatsと、その名を讃える祝祭とが同じ一つの町にあるのはなんとも不思議だった」とグリフィスは書いています。
このように宗教を離れた祝祭としてのクリスマスは今日わが国に定着し、すっかり日本の冬の風物詩となりましたが、グリフィスが福井における家族にプレゼントを贈りパーティーを開いた光景は、一つの原点だったといえます。翌明治五年には静岡でグリフィスの親友でもある教師E.W.クラークによって、同六年には秋田県小坂鉱山に赴任した技術者C.A.ネットーによって、楽しいクリスマスパーティーがそれぞれの地で開かれています。地方におけるお雇い外国人たちは専門の仕事だけではなく、広く外来文化を地元の人々に伝える最初の存在でもありました。明治初期の日本のクリスマスには、長い鎖国の後の新時代へ踏み出した熱気と、異文化に直接ふれあう温かい交流のぬくもりがあります。
グリフィスの物語を読む
小説『幸福の足袋』
著者の細谷龍平氏は公益財団法人日下部グリフィス学術文化交流基金理事長に就任以来、グリフィスコレクションに残された150年前の日記や手紙を丹念に読み込まれ、基金のFacebookや市民講座で内容を発信してこられました。当時のグリフィスにとって、来日直前に別れたエレン・ジョンソンの存在がとても大きなものだったことも、リサーチの過程で明らかになりました。それはこれまでのグリフィス研究においてあまり重視されてこなかった、けれども福井在住時のグリフィスを理解する上でとても大切な事柄でした。この小説は史料を基に叙述されたグリフィスの悲恋の実話であると共に、彼の福井での経験と心情を細やかに描きながら、クリスマスの物語に昇華させたフィクションでもあります。物語の余情と共にW.E.グリフィスの人間像が胸に残る作品として、おすすめします。
小説『幸福の足袋』は当館にて販売しております。(税込¥1650)
まとめ
福井の近代化に大きな影響を与えたウィリアム・エリオット・グリフィスの功績を伝えるグリフィス記念館。
教育や文化を通じて築かれた福井の歩みをたどりながら、近代福井の原点に触れてみてください。
基本情報
開館時間 午前10時~午後6時 ※入館は閉館時刻の30分前まで
休館日 年末年始(12月28日~1月4日)
入館料 無料
アクセス
〒910-0006 福井県福井市中央3丁目5番4号
・バス
【行き】すまいるバス・京福バス
福井駅西口より乗車。停留所「片町入口」下車。乗車時間約5分。
【帰り】すまいるバス
グリフィス記念館玄関前バス停「浜町」より乗車。乗車時間約5分。
・自動車 北陸自動車道 福井ICより約15分。(付設駐車場はございません。)
・ふくチャリ 敷地内にシェアバイクのポートがあります。(ご入館者以外も利用できます)https://fuku-chari.com
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