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北国街道を巡って旧街道の歴史ロマンを探訪しよう!見所やゆかりの地まとめ

北国街道(北陸道)は、古代から中世にかけては主に北陸道と呼ばれ、北陸と京を結んだ街道でした。江戸時代は、参勤交代にも利用されるようになり、新潟(上越)から長野(信濃)を通り中山道に合流する道として整備され、北国街道とも呼ばれるようになりました。今も宿場のあった町や沿道には町家や寺社など、当時を偲ぶ跡が残っています。 北國街道をたどって、今に残る当時の面影から歴史ロマンに思いをはせてみましょう。

ライター:福いいネ!くん
福いいネ!くん
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北国街道を巡って旧街道の歴史ロマンを探訪しよう!見所やゆかりの地まとめ

旧街道を歩けば歴史ロマンがたっぷり!北国街道を歩いてみよう

  • 九十九橋桃花の図(福井市春嶽公記念文庫)
  • 舟橋雪景の図(福井市春嶽公記念文庫)

街道とは、日本における古くから存在する陸上をつなぐ交通路・道路のことです。古くから街道が整備されていた場所は、街や集落、神社や寺院などを繋いでいた道であり、歩いてみると歴史や文化に裏打ちされた建築物や景観に出会うことができます。

この記事では、かつての街道を継承したり、生活道路として残されている道を「旧街道」として、越前国で古くから往来に使われていた北国街道(北陸道)沿いの名所やゆかり、歴史などについてご紹介します。

北国街道(北陸道)とは

  • 越前・若狭の交通路(図説福井県史・福井県立図書館・文書館)

 北国街道(北陸道)は、古代から中世にかけては主に北陸道と呼ばれ、北陸と京を結んだ街道でした。江戸時代は、参勤交代にも利用されるようになり、新潟(上越)から長野(信濃)を通り中山道に合流する道として整備され、北国街道とも呼ばれるようになりました。


 街道は、源平の時代、火打合戦に登場する木曽義仲が京都入りする際や、戦国時代、織田信長の朝倉攻めの際の移動にも使われるなどしており、周辺や道中には歴史上の出来事の舞台となったスポットが散在しています。



京阪街道一覧 福井市春嶽公記念文庫蔵

 越前国(福井県北部)内では、北から南に向かって縦断しています。江戸時代には、街道や宿場の整備、庶民の経済的向上を背景に、多くの人が北陸道を旅するようになり、イラスト形式で道中を案内する図が作られています。福井市立郷土歴史博物館には、江戸時代の絵図が多く遺されており、当時の福井城下や街道の様子を伝えています。

 地図には、「玉江」や「あさむつ橋」といった記載が見られ、これらは歌枕として和歌や文学作品に登場するなど(後述あり)街道沿いの名所として知られていました。


柴田勝家の街道整備

 1573年(天正元年)8月に織田信長によって朝倉氏は滅亡させられ、以後越前国は柴田勝家によって統治されることになります。「鬼柴田」「かかれ柴田」などと呼ばれ、猛将のイメージがある勝家ですが、越前での統治期間中は内政にもその手腕を発揮しています。

 朝倉氏が拠点とした一乗谷から足羽川と荒川の合流点にあった北庄(現在の福井市街)へ拠点を移した勝家は、交通政策を重視し、街道の整備に着手します。1578年(天正6年)には九頭竜川の高木~森田間の川幅101間(183.6m)に48艘の舟を鉄鎖でつないだ舟橋を造り、足羽川には、半分に木材、半分に石材を使用した九十九橋を架けます。2つの架橋によって南北の交通は向上し、またこれらの橋は有事には容易に橋を落とすこともできるものでした。

 さらに、福井県南越前町今庄から、栃ノ木峠を越え、木之本を経由して近江に至る北国街道(別名「東近江路」)を開き、近江との交通の便を良くするなど街道の整備に勤しんだと伝わります。


東近江路(勝家により中世後期に整備され、北国街道の通称で呼ばれる)

・今庄宿の南端(文政の道しるべ)から板取宿、栃ノ木峠を経て木之本へ至る

・1578年(天正6年)柴田勝家が整備

・江戸時代には福井藩をはじめ各藩の参勤交代や伊勢参りの人たちに利用された

・おくのほそ道で知られる松尾芭蕉も通り、大垣へ向かっている


西近江路(旧来からの北陸道)

・今庄宿の南端(文政の道しるべ)から木ノ芽峠、敦賀を経て湖西を通り京都へ至る

・平安時代に開通

・織田信長最大のピンチとして有名な「金ヶ崎の退き口」のルートはさらに1本西で朽木を通る「若桜街道」

柴田神社(北庄城址)
柴田神社(北庄城址)
北庄城の跡地にあり、柴田勝家公をお祀りする神社です。併設する資料館には、九頭竜川に渡した舟橋に使われていた鎖や足羽川に架かっていた九十九橋の石柱などが保存されています。
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舟橋/四王天又兵衛屋敷跡
舟橋/四王天又兵衛屋敷跡
明治の初めころまで、九頭竜川には四十八隻の船を繋げた船橋が架かっていました。柴田勝家は、「刀狩り」で集めた鉄で作ったクサリで船を繋いで恒常的な橋としました。
河川敷のテニスコート付近には、舟橋の橋奉行を代々務めた四天王家の屋敷(奉行所)があったと推定され、現在の橋の南詰には石碑が建てられています。
九十九橋
九十九橋
北陸道が河川を横切る地点で橋があったのは、足羽川を渡る九十九橋と九頭竜川の舟橋だけでした(ほかは渡舟)。88間の九十九橋は、越前の旅程の起点とされていた他、半石半木の奇矯として当時知られていました。
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板取宿
板取宿
天正6年、柴田勝家が道を改修してから栄えたと伝わります。北国街道の入口として初代福井藩主結城秀康以来、関所を設け旅人を取り締まっ…
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木ノ芽峠
木ノ芽峠
敦賀郡新保宿と南条郡二ツ屋宿の間にある標高628mの峠で、古来から北陸道の要衝でした。現在も残る石畳や茶屋からは当時の様子がしのばれます。
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松尾芭蕉も歩いた北國街道

  • 奥の細道むすびの地記念館ホームページより

 「松尾芭蕉」と「おくのほそ道」といえば、誰もが一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。「おくのほそ道」は、松尾芭蕉(まつおばしょう・1644~1694)が門人の河合曾良(かわいそら・1649~1710)と東北・北陸方面の名所を巡った旅を俳句とともにつづった紀行文のことで、1694年(元禄7年)に完成しています。

 旅は、1689年(元禄2年)3月に江戸深川を出発し、8月末に大垣に到着するという長距離、長期間に及ぶもので、その旅路の中で松尾芭蕉も越前国の街道を歩き、おくのほそ道にも福井で読まれた句が所収されています。

 芭蕉は、1689年(元禄2年)年8月10日に加賀大聖寺から越前に入り、吉崎―松岡ー永平寺ー福井ー今庄ー敦賀と巡り、18日に大垣に向かったとされています。福井では、11日から知人の神戸洞哉(かんべとうさい)宅に2泊し、共に13日に敦賀へ向かっています。洞哉宅跡付近と推定されている左内町の左内公園内には石碑が設置されています。

「おくの細道」におさめられている福井県内で詠まれた句

 おくの細道には、福井県内で詠まれた句、4句が所収されています。



・物書て 扇引さく 余波哉(ものかきて おうぎひきさく なごりかな)

金沢から北枝(ほくし)という門人と旅をしていたが、越前の地で別れ、名残惜しいことを詠んだ句


・月清し 遊行のもてる 砂の上(つききよし ゆぎょうのもてる すなのうえ)

気比神宮を訪れた後、古来より伝わる神事(砂持神事)にちなんで詠んだ句


・名月や 北國日和 定なき(めいげつや ほっこくびより さだめなき)

越前での最大の目的は気比の松原での十五夜の月見であったが、訪れた当日は雨となり北陸の気候の変わり易さを落胆して詠んだ句


・寂しさや 須磨にかちらる 濱の秋(さびしさや すまにかちたる はまのあき)

・波の間や 小貝にまじる 萩の塵(なみのまや こがいにまじる はぎのちり)

敦賀の色浜(いろのはま)を訪れた際に詠んだ句


「芭蕉塚」天龍寺 境内
「芭蕉塚」天龍寺 境内
「物書きて 扇引きさく 余波哉」これは松尾芭蕉が「奥の細道」の途中、天龍寺に立ち寄った時に作った贈答句です。芭蕉塚は1844年に同好…
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気比神宮
気比神宮
仲哀天皇ほか六座を祀り、「越前一の宮」「北陸道総鎮守」とも称される古社です。佐渡ヶ島から漂着したムロで建立したと伝わる大鳥居は…
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気比の松原
気比の松原
敦賀湾最奥部に広がる気比の松原は、白砂青松の景勝地で、日本三大松原のひとつに数えられ、国の名勝にも指定されています。かつては…
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福井市で詠まれた月の句とゆかりの地

 「おくのほそ道」には記されていませんが、福井から敦賀への道中、芭蕉は月の句ばかり15句を詠んでいます。(敦賀から同行した門人、路通(ろつう)が書きとめたもの)

 そのうち、福井市内で詠まれた3句をご紹介します。



・名月の 見所問わん 旅寝せむ(めいげつの みどころとわん たびねせむ)

 洞哉とともに敦賀へ向かうことを詠んだ句


・あさむつを 月見の旅の 明離(あさむつを つきみのたびの あけばなれ)

・月見せよ 玉江の蘆を 刈らぬ先(つきみせよ たまえのあしを からぬさき)

 どちらも景勝地として知られていたあさむつ橋(浅水町)、玉江(花堂町)を月とともに詠んだ句。福井市月見町の名は「月見せよ~」の句にちなんで付けられています。

芭蕉宿泊地洞哉宅跡石碑
芭蕉宿泊地洞哉宅跡石碑
「おくのほそ道」で知られる歌人、松尾芭蕉は、大聖寺から越前国に入り、敦賀を経て大垣へと旅をしました。福井では、敦賀までの道中をと…
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玉江跡
玉江跡
おくのほそ道で知られる松尾芭蕉は、越前国を旅している間に15句の月の句を詠んでいますが、そのうちの1句「月見せよ玉江の蘆を刈らぬ先…
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あさむつ橋
あさむつ橋
福井市の浅水(あそうず)地区にあるあさむつ橋は、平安時代、清少納言が書いた「枕草子」にも語られた橋で、おくのほそ道で知られる松尾…
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コラム

明智光秀の越前雌伏のときのエピソードが詠まれた芭蕉の句

 芭蕉は、おくのほそ道の完成後、伊勢参宮に向かっており、その際立ち寄った知人の島崎又玄(ゆうげん)宅にて、「月さびよ 明智が妻の 話せむ」という句を詠んでいます。

 これは、島崎又玄の妻が、夫をかいがいしく支える姿を見たことに着想を得て、その様子を明智光秀の妻照子が越前国で雌伏のときを過ごしていた光秀のために自分の黒髪を売って資金の足しにしていたというエピソードに重ねて詠んだものとされています。

旧街道を歩いてみよう(福井市域内)

江戸期以降、街道沿いには宿場町や茶屋などの施設が栄え、現在も旧街道沿いには、歴史や文化の名残が残されている場所があります。

石畳の道や、旧街道の道幅を残し今も使用される生活道路、その両脇に残る風情のある街並みや寺社仏閣などの文化財、ときおり現れる地蔵堂や石碑。地元で愛されている老舗や呉服屋も旧街道沿いにあることが多く、旧街道を歩くことで、その地域の歴史を感じることができます。

街道を歩けば思いがけない発見があふれ、歴史好きの知的好奇心を満たしてくれることでしょう。

北國街道のルートをたどる目印となるスポット

越前国の北國街道をたどる石碑や旧跡をできるかぎりピックアップして地図に落としてみました。

各地に残る地名や名所、伝承など、旧街道には歴史の魅力がいっぱい。旧街道を巡って、歩いて、歴史のロマンに思いを馳せてみてくださいね。

  • 加賀・越前 国境一里塚跡
  • 細呂木関所跡
  • 細呂木一里塚跡
  • 嫁威谷(よめおどしだに)
  • 千束一里塚(あわら市)
  • 下関一里塚
  • 長畑一里塚跡/おはや・良作供養塔
  • 北横地の一里塚/北横地追分/追分地蔵
  • まつや地蔵
  • 稲多宿場碑
  • 舟橋/四王天又兵衛屋敷跡
  • 松本荒町一里塚
  • 加賀口御門址
  • 筋違橋(呉服町)
  • 九十九橋
  • 木田荒町一里塚跡
  • 玉江跡
  • ベル裏(玉江橋)
  • 下荒井町 三軒茶屋の碑
  • 荒井一里塚跡
  • あさむつ橋
  • 鳥羽一里塚跡
  • 鳥羽橋
  • 旧北陸道 烏ケ森
  • 追分の道標(鯖江市水落町付近)
  • 水落宿場跡碑
  • 長泉寺一里塚跡
  • 鯖江藩陣屋跡
  • 白鬼女橋
  • 柳原一里塚跡
  • 往還一里塚跡地
  • 北国街道道標(越前市)
  • 湯尾峠
  • 北国街道道標(南越前町)
  • 今庄宿
  • 板取宿
  • 木ノ芽峠
  • 気比神宮

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