下関一里塚
かつて旅人にとって旅程の目安となり休憩場所となった
江戸幕府は慶長6年(1601)から東海、東山、北陸等の諸街道の整備を行いました。また同9年(1604)には江戸日本橋を起点とし、一里(約3.9km)毎に一里塚を造らせました。そこには道の両側に五間(約9.1m)四方の塚が築かれ、塚が崩れないように榎や松等が植えられました。旅人にとっては旅程の目安になり、また木陰であることから休息の場所となりました。
明治以降、一里塚の多くは無くなってしまいましたが、北陸道では坂井市の下関一里塚の他、あわら市花乃杜3丁目にある千束一里塚(県指定史跡)、福井県内では西近江路の敦賀市道ノ口の一里塚が往時の面影をいまに伝えています。(なお、一里を約3.9kmと定めたのは織田信長といわれています。)
下関一里塚は、江戸時代には東側の塚に1本、西の塚に2本の榎が植えられていました。当時、このあたりの道は「関の七曲り」と呼ばれ、曲がりくねっていたため、目印として役立ちました。昭和16年頃までは両方の塚が残っていましたが、東の塚は耕地整理の際に取り壊され、現在は西の塚が残されています。
- エリア
- 東尋坊・あわら温泉エリア
基本情報
- 住所
- 福井県坂井市坂井町下関